2015年9月19日土曜日

セートゥ・サーマ(सेतुसाम [setusāma])

サーマ・ヴェーダの中に、「セートゥ・サーマ」と呼ばれる有名な一節があります。

このサーマ・ヴェーダの一節は、プージヤ・スワミジがよく引用されいるので、

今回はこの「セートゥ・サーマ」の一語一句をわかりやすく説明します。



この「セートゥ・サーマ」は「仏陀の言葉」としても紹介されていました。

ご存知の通り、後に仏陀と呼ばれる王子シッダールタは、

バリバリのヴァイディカ(वैदिकः [vaidikaḥ])、

つまり、ヴェーダの伝統の生活規範に沿って先祖代々暮らしてきた人です。

仏陀の像に見られる、ヤッニョーパヴィーダ(襷掛けの紐)や耳のピアス、

そしてドーティやティラカは全て、ヴェーダの伝統的生活様式の代表です。

仏陀がサーマ・ヴェーダも勉強されていたのかどうかは知りませんが、

サーマ・ヴェーダの智慧は受け継がれたようですね。


「超え難きを超えよ」


サーマヴェーダのとても美しい響きにのせて、

人生で超え難きもの(セートゥ)の超え方が教えられています。

ここで言われる「超え難きもの」とはつまり、人間の未熟さです。


プージヤ・スワミジはこの「セートゥ・サーマ」が好きなので、

機会があるごとに、サーマヴェーディ(サーマヴェーダを歌う人)達に、

この「セートゥ・サーマ」を歌わせて、私達に聞かせてくれました。

しかし残念ながら、録音した音声ファイルはネット上に無いようです。

只今リシケシに滞在しておりまして、リシケシのアシュラムのテンプルで働く

サーマヴェーディーのプージャリさんに録音をお願い出来るか当たってみます。

私が昔テンプルでお世話をしていた時、彼がサーマヴェーディー独特の

高くてどこまでも届くような声で「サーマ・セートゥ」を歌ってくれたことが何回かありました。


繰り返される部分は、

सेतूंस्तर (セートゥームースタラ)। दुस्तारान् (ドゥスタ、ラーーン)।

(サーマなので、簡略された文法的表記とはかなり相違があります。)


どうやって、どの未熟さを超えるのか?


ヴェーダは言葉から成る知識の集合体です。

これらの言葉は文法的に集まって、文章を成しています。

文章の中で一番大事で一番最初にゲットするのは、、そう、動詞ですね。

この文章の動詞は、「タラ(तर [tara])」です。

「タラ(तर [tara])」は、「超える、泳ぐ」という意味の「तॄ [tṝ]」という動詞の原型を、

命令形・二人称・単数で活用した形です。

「超えよ」という意味ですね。

何を超えるのか?

「セートゥーン(सेतून् [setūn])」は、「セートゥ(सेतु [setu])」という名詞の原型が、

目的語として活用した形です。

「セートゥ(सेतु [setu])」の一般的な意味は「橋」ですが、そのほかにも、

「土を盛って出来た境界、障害物、束縛するもの」とった意味があります。

併せてみると、「境界を越えよ」と言う意味ですね。

境界はどのようなものなのかを表す形容詞も歌われています。

「ドゥスタラ(दुस्तर [dustara])」の दुस् [dus] は「困難な、悪質の」という意味です。

「タラ(तर [tara])」はここでは名詞で、「超えるべきもの」となり、

併せて「超え難い」という意味になります。

「超え難きを超えよ」と繰り返されているわけです。

でも、どうやって?

ここがこの「セートゥ・サーマ」の美しいところです。

4つの方法が述べられています。


1.与えることによって、与えられない未熟さを超えよ


ダーネーナ アダーナムदानेन अदानम् [dānena adānam])

「与えること」=「ダーナ(दानम् [dānam])」によって、

「与えられない、一歩踏み出して手を差し伸べられない、自分の小ささ」

=「アダーナअदानम् [adānam])」を超えよ。

自分と世界の中でリラックスして、安心できて初めて、人は与えられます。

私達は、与えられるものを、既に与えられています。

与えられたものは全て、与える為にあるのです。

歩ける足や動かせる手、人を助けることの出来る身体や、

人を癒す優しい言葉を生み出せる舌、考えられる脳みそなど、

全てを与えられてもらいながら、

「自分は無力でつまらない存在だ」と罰当たりなことを言い出して、

周りから愛や認識や物をもらうことばかり考えてしまう。

人間というものは、「もらおう」と考えている以上、未熟な存在です。

惨めな人の考え方の基本は、「この世から出来るだけいっぱいGetしよう」です。

どんなにお金を持っていたとしても、人間を貧しくしているのは、この考えです。

そこから脱出するには?

「この世に出来るだけ沢山Giveしよう」という姿勢で、

実際に、物理的に、体と時間とお金を使って「与える」という行動をすることです。

この世には「理解するべきこと」と「行動に移すべきこと」というふたつ別々のものがあります。

「理解するべきこと」を行動に移そうとしたり、

「行動に移すべきこと」を理解するだけにしようとして、行動に移さなかったり、

大体人間ってそんなものです。


2.怒りに任せた言動を避けることから始めて、怒りを超えよ


アックローデーナ クローダムअक्रोधेन क्रोदम् [akrodhena krodam])

「怒り」は「クローダ(क्रोधः [krodhaḥ])」です。

その反対が「アックローダक्रोधः [akrodhaḥ])」。

直訳すると、「怒らないことによって、怒りを超えよ」です。

ヨガや瞑想関係で、「怒るのをやめましょう」と教える人がよくいるようですが、

それは人間の心理を理解せず、とても危険なアドヴァイスです。

「今から3秒間手を叩いてください」と言われたら、その通りに出来ますが、

「今から3秒間起こってください」と言われても、その通りには出来ません。

怒る・怒らないは、心理反応(リアクション)であって、

自由意志を持って選択出来る「行為(アクション)」では無いからです。

ゆえに「今から怒るとするか」とか、怒ってしまっている人が「怒るのやめよう」といって、

その通りに実行できるものではないのです。

では、私達には何が出来るのか。金輪際怒りません、は無理です。

しかし、怒ってしまった場合に、怒りに任せた言動を慎む為に、

その場から離れるという行動は選択出来ます。

怒っている時には、とにかく言葉を発したり、行動や決断をしたりしない。

これが最初のステップ「ダマ」です。

怒っていない時に、後から怒ってしまった状況を振り返って、

状況と、自分の怒りのツボを客観的に捉え、

そんな自分を蔑んだり責めたりするのではなく、

大きな心で友情を持って自分を受け入れてあげれば、

怒りの再発はどんどん少なくなります。これが「シャマ」です。

まず「ダマ」、そして「シャマ」が、受け入れ難い感情から毒を抜く方法です。



3.信頼することを学んで、不信頼を超えよ


シュラッダヤー アシュラッダームश्रद्धया अश्रद्धाम् [śraddhayā aśraddhām])

シュラッダーश्रद्धा [śraddhā])」は、「信頼」と訳してしまってもいいかもしれません。

「自分には良く分からないけど、この人が言っているのだから、

ますこれが正しいという前提で、理解を進めていこう」という態度です。

それの反対が「アシュラッダーश्रद्धा [aśraddhā])」、信頼する能力の無さです。


現在の3年コースでサンスクリットを教えていて気付くのは、

ヴェーダーンタやサンスクリット語を難しくさせているのは、

文献の難解さではなく、その人の「アシュラッダー」なのだということです。

自分に分からないことがあれば、自分の考えを先生の考えに合わせようと

努めようとすることがシュラッダー」です

先生の考えに自分の考えをチューンして合わせる為の方法を毎日教えているのに、

安心してそれを受け入れられない。だからそれをしない。だから分からない。

持っている全ての知力は、教えを責める為に使われ、

自分の物の見方の間違いを正すことに使われない。

一番近道を教えてあげているのだから、その通りにすればいいのに、

と傍から見てて思うのですが、特に現代人はそれが難しいですね。

「アシュラッダー」の原因


小さいときに、「これをしなさい」とはっきり言ってくれる

親や周りの大人が居ないと、こうなるのかな、と思います。

「何がしたい?お母さんがこれしてもいい?自分で決めてね。」は、

判断材料にまだ乏しい幼児を、パニックに陥れるようなものです。

「私が先に生きてきて、一番正しいと分かったのはこれよ。」と、

先に生きてきた智慧を子供に与えるのが、賢い親や周りの大人のすることです。

子供は、何でそれが正しいのか分からなくても、母親の言うことだからと安心していられます。

それが本当に正しかったのかどうか分かるのに、10年や20年かかっても良い、

と思えてリラックスしていられるのが「シュラッダー」です。

「自分で決めて」から生まれた幼児の頃のパニックは、

表層意識に出ずに、大人になってからも「全部自分で決めなきゃ!」と、

何でもコントロールしようとする「シュラッダー」という形で、

その人の考え方を支配してしまうのだろうな、と思います。


4.真実により、偽りを超えよ


サッティェーナ アサッティヤसत्येन असत्यम् [satyena asatyam])

サッティヤसत्यम् [satyam])」は「真実を話すこと」です。

「アサッティヤसत्यम् [asatyam])」はその反対です。

「自分は嘘なんかつかないよ」と思うかもしれませんが、

自分が真実だと思っているだけではなく、ちゃんと真否を確認すること。

そして聞いている人に有益で、感情を傷つけずに話すことです。

もちろん、絶対的には、真実を知ることにより、

真実ではないものを真実だと思い込むことを超えられるのです。



抜粋、意訳です。

दानेन अदानं तर(by giving, grow out of the incapacity to give.)
अक्रोधेन क्रोधं तर(by not acting upon anger, grow out of the anger.)
श्रद्धया अश्रद्धां तर(by trust, grow out of the distrust.)
सत्येन असत्यं तर(by truthfulness, grow out of the incapacity to tell truth.)


全文

हाउ३। सेतूँस्तर।३। दुस्त। रान्।३। दानेनादानम्।३। हाउ।३। अह मस्मिप्रथमजाऋता२३स्या३४५। हाउ।३। सेतूँस्तर।३। दुस्त।रान्। ३। अक्रोधेन क्रोधम्। २। अक्रोधेन क्रोधम्। हाउ। ३ ।पूर्वं देवेभ्यो अमृतस्य ना२३मा३४५। हाउ। ३। सेतूँस्तर। ३।दुस्त। रान् ।३। श्रद्धयाश्रद्धाम्। ३। हाउ। ३। योमाददाति सइदेवमा२३वा३४५त्। हाउ३। सेतूँस्तर। ३। दुस्त। रान्। ३। सत्येनानृतम्। ३। हाउ।३। अहमन्नमन्नमदन्तमाऽ२३द्मी३४५। आउ२हाउवा। एषागतिः।३। एतदमृतम्।३। स्वर्गछ।३। ज्योतिर्गछ।३। सेतूँस्तीर्त्त्वाचतुराऽ२३४५ः। इति मुखे॥ 




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<< 前回 アーユルヴェーダのプレーヤー(祈りの句) <<

ダンヴァンタリへの祈りの句です。


2015年9月17日木曜日

アーユルヴェーダのプレーヤー(祈りの句)

今回は、アーユルヴェーダ(健康長寿の智慧)を授けた神として崇められる、

ダンヴァンタリ(धन्वन्तरिः [dhanvantariḥ])という名のデーヴァに向けての

祈りの句(シュローカ )を紹介します。

一語一語の意味を、文法的にもわかりやすく説明しますね。
 

ダンヴァンタリ(धन्वन्तरिः [dhanvantariḥ])とは、

ヴィシュヌがデーヴァター達の主治医として現れた形、

つまりヴィシュヌの化身のひとつです。

今回紹介するシュローカは、

アーユルヴェーダの施術を受ける前に、ダンヴァンタリが奉られる祭壇に向かって、

施術をする人とされる人の両方が一緒に、手を合わせて唱える祈りのシュローカです。


नमामि धन्वन्तरिम् आदिदेवं सुरासुरैर्वेन्दितपादपद्मम् ।
[namāmi dhanvantarim ādidevaṃ surāsurairvenditapādapadmam |]

लोके जरारुग्भयमृत्युनाशं दातारमीशं विविधौषधीनाम् ॥
[loke jarārugbhayamṛtyunāśaṃ dātāramīśaṃ vividhauṣadhīnām ||]


サンスクリット語の祈りのシュローカは全て、

文法的に分析できる文章から成っています。

文章は単語の集まりから構成されています。

文章の中で一番大事で一番最初に見つけるべきは、動詞です。

このシュローカの文章においての動詞は:

नमामि (ナマーミ [namāmi]) = 私は敬礼を示します。


この動詞は、नम् [nam] という動詞の原型が活用したものです。

नम् [nam]は、単に「挨拶する」というよりも「尊敬を表現する」という方が良いでしょう。

尊敬する、ということはつまり、何が尊敬するべき価値かを知っているということです。

知識、特にヴェーダの知識を持っていることは、多大な尊敬に値します。

その価値を知っている人は、知識を持っている人に対して尊敬を表現する行動、

つまり手を合わせたりお辞儀してナマスカーラをします。

しかし、ヴェーダの知識を、いろいろある思想のひとつとして捉えている文化圏の人には、

ヴェーダの知識や、知識を持っている人に対して、尊敬すべき価値が分かりません。

ナマスカーラは、それをされる人の為にあるのではなく、

ナマスカーラをする人の価値感や姿勢を育てる為にあるのです。

シュローカの意味に戻りましょう。

私は誰に対して敬礼を示しているのでしょうか?

サンスクリット語の能動態の文章の中で「~に」という目的語に値する名詞は、

第2格で活用します。このシュローカの中には第2格で活用している名詞が6つあります。

私が敬礼を示している相手を説明する言葉が6つあると言うことです。


1.धन्वन्तरिम्(ダンヴァンタリム [dhanvantarim])= ダンヴァンタリに


ミルクの海を、スラとアスラ(日本語の阿修羅)が攪拌して出てきた

アムリタを手に持って出現したヴィシュヌの化身の名前です。

だいたいこんな感じで登場します。

2.आदिदेवम्(アーディデーヴァム [ādidevam])= 最初のデーヴァに


「最初・始まり」という意味の「アーディ(आदि [ādi])」と、

この世界のあり方の法則、そして意識的な存在という意味の

デーヴァ(देव [deva])」という言葉の複合語です。

あまり分かってもらえないですが、この世界には始まりも終わりも無く、

ぐるぐると、創造と破壊のサイクルを繰り返しているのです。

そこに「アーディ(最初)」など無いのですが、

一般に人々が最初と捉えている、その時にも既にいるので、

「アーディ」という形容詞が付くのです。

सुरासुरैः  (スラースライヒ [surāsuraiḥ])= スラとアスラによって

3.वन्दितपादपद्मम्(ヴァンディタ-パーダ-パッドマム [vanditapādapadmam])

= 敬礼された蓮の花のような足を持つ者に


「パーダ(पाद [pāda])」とは「足」という意味です。

インドの伝統では、高い尊敬を表すとき、足を触ったり、洗ったり、プージャーしたりします。

足という部分は、プージャーする為の祭壇となるからです。

そんなプージャーに値する足は、蓮の花に例えられます。

蓮の花は「パドマ(पद्म [padma])」ですね。

そんなロータス・フィート(蓮の花のような足)は、

人間に栄光を与えられるスラからも、人間を混乱させるアスラからも、

敬礼されています。=「ヴァンディタ(वन्दित [nandita])」

वन्द् [vand] は、नम् [nam] と同じ意味です。



लोके (ローケー [loke])= この世における

4.जरारुग्भयमृत्युनाशम्(ジャラルッグバヤムリッティユナーシャム [jarārugbhayanāśam])= 老いや病からの恐怖、そして死を破壊する者

「ローカ(लोक [loka])」とは「世界」という意味。「人々」という意味もあります。

第7格で活用して「この世界において、この世界の中で」という意味になります。

「ジャラー(जरा [jarā])」は「老い」、「ルグ(रुग् [rug])は「病気」、

それらからの「バヤ(भय [bhaya])」=恐怖を、

そして「ムリッティユ(मृत्यु [mṛtyu])」=死を、

「ナーシャ(नाश [nāśa])」= 破壊する人

相対的には、健康や長寿を実現することにより、

老いや病からの恐怖や死を克服出来ますが、

絶対的には「アムリタ」にあるように、

自分の本質を正しく知ることによってのみ可能です。

5.दातारम् (ダーターラム [dātāram])= 与える者


「与える」という意味の「ダー(दा [dā])」という動詞の原型に、

「~する人」という意味の「トゥル(तृ [tṛ])」という接尾語を付加した派生語です。


6.ईशम् (イーシャム [īśam])= 司る者

「司る」という意味の「イーシュ(ईश् [īś])」という動詞の原型に、

「~する人」という意味の「ア(अ [a])」という接尾語を付加した派生語です。

意味は「イーシャ」のページをご覧下さい。


何を与えたり司ったりする者なのでしょうか、ダンヴァンタリという神様は?

विविधौषधीनाम्(ヴィヴィダウシャディーナーム [vividhauṣadhīnām])
= 様々な薬草の


「ヴィヴィダー(विविधा [vividhā])」とは「色んな種類の」という意味です。

アウシャディ(औषधिः [auṣadhiḥ])」は、「薬草」または「薬」ですね。

「アー(आ [ā])」と「アウ(औ [au])」という母音が、この順番で連なった時は、

そう、ふたつの音がヴリッディになるのでしたね。

最後に意味をつなげ合わせると:

「スラからもアスラからも尊敬を示された、蓮の花のような足を持つ、

老いや病気の恐怖や死を破壊する、

様々な薬草を与え、司る者、最初のデーヴァ、ダンヴァンタリに

私はナマスカーラをし、恩恵を授かります。」



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仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味

シリーズ(1)シリーズ(2)


2015年9月7日月曜日

仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(2)

仏教用語になったサンスクリット語シリーズの2回目です。

前回と同様に、サンスクリット語の言葉の意味は全て、

ヴェーダの伝統に基づくもので、仏教の概念は全く考慮していないので、

ごっちゃにしないで下さいね。


ヴェーダーンタと仏教の関係


ヴェーダーンタが教える真実は、

理論的な検証・討論を勝ち残った最終的な真実=シッダーンタ

と呼ばれます。

それに対して、各種ブッディストの世界観は、

ヴェーダーンタの教えの正しさを証明するために登場する、

理論的検証に耐えない欠陥のあるもの、

混乱して間違った考え、という立場です。

仏教について学んだことがなくても、仏教国の国民として、

仏教にアイデンティティーを持っている人には、

仏教の教えを否定されるのには違和感を感じるかも知れません。

しかし、ヴェーダーンタの論議は、仏教の文化や信者を否定している訳ではありません。


インドの宗教事情


ヴェーダの文化には「改宗」はありません。

真実を知りたい人には教える。

世界中のあらゆる思想や宗教、生活様式を尊重し、干渉などはしない。

これがヒンドゥー本来のありかたです。

他の宗教もそうであってくれれば、世界は平和なのですが。

インドでは、クリスチャン・ムスリム・仏教徒による、

ヒンドゥー文化潰しと改宗戦争が日々行われています。

そんな中でもヒンドゥーの立場は「互いの信仰を尊重し、

干渉しない(破壊・改宗活動をしない)で共存しましょうよ」です。

島国日本ではあまり実感の湧かない話かもしれませんが、

インドのこのような一面も日本や世界の人に是非知ってもらいたいと願います。

前置きが長くなりましたが、、



阿僧祗(あそうぎ)


サンスクリット語では「アサンキャ(असङ्ख्यः)」です。

「キャー(ख्या [khyā])」は動詞の原形で、「呼ぶ、言う」という意味です。

それに「サム(सम् [sam])」という接頭語を付けると「数える」という意味になります。

動詞を名詞形にして「サンキャー(सङ्ख्या [saṅkhyā])」にすると、「数」となります。

それに、否定の接頭語「ア(अ [a])」を組み合わせた複合語にすると、

「数えられないもの」という意味の「アサンキャ(असङ्ख्यः)」となります。


尼(あま)


「お母さん」を表すサンスクリット語「アンバー(अम्बा [ambā])」から来たそうです。

私自身も出家尼僧の一歩手前のような立場ですが、

自分よりも年上の僧からも「マタジ」「アンマー」(どちらも「お母さん」という意味)

と呼ばれることがあります。

「あなたを女神=母親として見ていますよ、女性として見てる訳ではないですよ」

という姿勢を表しているのだろうけど、別にわざわざ、、、って複雑な心境ですね。


阿羅漢(あらかん)

サンスクリット語の「アルハ(अर्हः [arhaḥ])」から来た言葉です。

「アルフ(अर्ह् [arh])」とは、「資格がある、素養がある」という意味の動詞の原形です。

そこから派生した言葉「アルハ(अर्हः [arhaḥ])」は、

ある物や知識を受け取る資格のある者、という意味です。


目の前にどんなに素晴らしい物や知識があっても、

それを受け取ることの出来る素質がなければ、自分のものには出来ません。

バガヴァッド・ギーターの中で教えられている知識は、

「最高の秘密」として教えられています。

なぜ秘密かと言うと、準備の出来ていない人に教えても理解されないからです。

知識を受け取る為の準備・資格とは?

感情に影響されない知性を持ち、客観的にこの世の限界を見極めている人、

自分が何が欲しいのか、ある程度分かっている人、思いやりのある行動をいつも取れる人、

などいろいろありますが、一言で言うと、人間として成長している人、ですね。


刹那(せつな)


「クシャナ(क्षणः [kṣaṇaḥ])」というサンスクリット語が語源です。

「クシャナ」とは短い時間の単位。

「ムフールタ」48分間。その半分が「ダンタ」で24分間。

その15分の1である1.6分間が「ラグ」、さらにその15分の1が「カーシュター」、

そしてその5分の1が「クシャナ」で、1.28秒です。

その3分の1が「ニメーシャ(まばたきの)」で、0.43秒です。


シッダールタ(सिद्धार्थः [siddhārthaḥ])


これはまた別の項を設けて説明しますね。


僧伽(さんが)


「サンガ(सङ्गः [saṅgaḥ])」というサンスクリット語そのままですね。

「サンジ(सञ्ज् [sañj])」という動詞の原形は「くっつく、しがみつく」という意味なので、

「サンガ」は、「心理的依存」という意味で使われることもあります。

人とのつながりや、集まりという意味でも使われます。

詳しくはサット・サンガを参照してください。


今回はこのくらいで、、、


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仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(1)

阿吽(あうん)、阿伽/閼伽(あか)、
阿闍梨(あじゃり)、阿修羅(あしゅら)







http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/12/blog-post.html
不動明王 & シヴォーハムとは 

仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(3)


仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(4)




2015年9月3日木曜日

66.ニッティヤ(नित्यम् [nityam])永遠、時間の範囲内でないこと

ニッティヤ(नित्यम् [nityam])は「永遠の」という形容詞としても使われますが、

中性名詞として使えば、「永遠」「エタニティ」という意味の抽象名詞になります。



形容詞の「永遠の愛」とか「永遠の幸せ」とかいった使われ方や、

中性名詞の「永遠」「エタニティ」はキャッチフレーズのように良く使われますが、

その本当の意味が理解出来るのなら、それはモークシャです。

今回は、「永遠」「エタニティ」という言葉の意味をじっくり探ってみましょう。



ニッティヤ(नित्यम् [nityam])には大きく分けて3つの意味があります。

1.相対的なニッティヤ
  アーペークシカ・ニッティヤ(आपेक्षिकनित्यम् [āpekṣikanityam])

2.時間軸の中で流れ続けるニッティヤ
  プラヴァーハ・ニッティヤ(प्रवाहनित्यम् [pravāhanityam])

3.絶対的なニッティヤ
  パーラマールティカ・ニッティヤ(पारमार्थिकनित्यम् [pāramārthikanityam])

では、それぞれを見ていきましょう。


1.相対的なニッティヤ



気の遠くなるような長~い長い時間のことを、

アーペークシカ・ニッティヤ(आपेक्षिकनित्यम् [āpekṣikanityam])と呼びます。

アペークシャ(अपेक्ष [apekṣa])とは、相対的、比較的という意味です。

長いけれども、終わりがある。

結婚するときに誓う、「永遠の愛」とか、

ヴェーダの教える「永遠の(ように長い時間遊んでいられる)天国」などに、

このタイプの「ニッティヤ(永遠)」が使われます。

天国とは?


ヴェーダは嘘をつきません。

ヴェーダは天国のことを「相対的に長い時間楽しんでいられる場所」として教えています。

絶対的な永遠は、その意味を理解出来る準備が出来た人のみに教えられます。


ヴェーダ以外では天国をどのように教えているのでしょうか。

宗教というものは大体「永遠の天国」を「人間の得られる最高のゴール」としています。

天国があるのか無いのかは、死んでからしか分からないので、

生きている間は信じるしかありません。

「信じないと永遠の地獄に落ちるぞ」と脅して、

生きている間のその人の人生をコントロールします。

人間というものは無邪気なもので、「永遠って何さ?」と立ち止まって考えてもみずに、

文字通り「盲目的」に永遠の天国というコンセプトを鵜呑みにして一生を棒に振ります。


天国とは、行ってまた帰ってくるところ


会社で一生懸命働いて残業代を沢山稼ぎ、無駄遣いもしないでちゃんと貯金すれば、

ハワイに1週間遊びに行けます。

でも、1週間過ぎたらまた、もとの会社に戻ってまた働くのです。

同じように、人間として生きている間に善い行いを沢山すれば、

死んだ後に天国に行けるよ~、とヴェーダは約束をします。

しかし、「本当の永遠ではなく、相対的な永遠、つまりまた人間として戻ってきますよ!」

と、ヴェーダは正直にちゃんと教えてくれます。

天国行きとは結局、ハワイ旅行と同じ、ツーリズム・プロモーションなのです。

天国に行っても、人間の本当の、最終のゴールは果たせないと、

人間に解らせてくれるのです。

でも、それを言われても解らないのが人間なので、いつか気付くまでの間は、

気の済むまで天国行きを繰り返せるように、いろんな方法を教えてくれます。





相対的な永遠


ヴェーダの教える天国「スワルガ(स्वर्गः [svargaḥ])」では、

とてつもなく長~い時間快適に過ごすことが出来ます。

人間の身体というものは、持っても100年そこそこで、

生きている間もどんどん老いて、痛みやコンプレックスの根源であり、

命をつなぐ為だけにも、毎日食べたり消化したり汗をかいたりとメンテナンスが大変で、

楽しいことばかりにいそしんでいられません。

一方、人間として生きている間に善い事を沢山した人は、

死んでからスワルガに行き、そこでスワルガ用の身体を得ます。

スワルガ用の身体は老いたり病気をしたりしません。汗もかきません。

長い時間、ただただエンジョイするためだけに設計された身体です。

スワルガには色んな種類があって、最上の天国はブランマ・ローカだと、

ヴェーダは教えます。ブランマ・ローカではブランマージーの一生分の時間が過ごせます。

それってどれ位の長さかというと。。。

こちらにヒンドゥーの気の遠くなるような時間の単位の計算をまとめました。

物理的にこのように長くなくとも、感覚的にでも構いません。

実質は5分しか経っていなくても、その5分が永遠に感じる時があります。

5分でも、5兆年でも、どちらも相対的な時間の範囲なのです。

長いと感じたら、それは長いのです。

経験というものは相対的なものなのですから。



2.時間軸の中で流れ続けるニッティヤ


プラヴァーハ(प्रवाह [pravāha])とは、「河の流れ」という意味にもなっているように、

継続的な流れを指すサンスクリット語です。

河の水面を眺めていると、一瞬一瞬にそれぞれ違った形をしていて、

同じ形の水面は2度とありません。

私が昔住んでいたリシケシのアシュラムから眺める
ガンガージーの水面(雨季)

同じように、変化し続けながら存在する、この世界・宇宙は、

プラヴァーハ・ニッティヤ(प्रवाहनित्यम् [pravāhanityam])と呼ばれます。

世界・宇宙は、五感で知覚出来るように表れている状態でも、

五感で近く出来なくても、可能性という状態で存在しています。

今の科学の説明を使うと、ビッグバン以前でも、ビッグバンが起きる原因として

宇宙は存在し続けていると言えます。

宇宙の表れ方について、物理学的、地学的、天文学的、

といったあらゆる側面の法則をダルマと呼びます。

ゆえにダルマもプラヴァーハ・ニッティヤです。

ヴェーダも、人間のあるところには必ず表れるので、プラヴァーハ・ニッティヤです。

ちなみに、人間の定義は、「自由意志を持った生命体」です。




3.絶対的なニッティヤ


パラマールタ(परमार्थ [paramārtha])とは「絶対的」という意味です。

絶対的な意味でのニッティヤは、

パーラマールティカ・ニッティヤ(पारमार्थिकनित्यम् [pāramārthikanityam])

と呼ばれます。

この言葉の本当の意味を理解出来れば、それがモークシャです。


人間の生まれてきた意味、人生のゴール


モークシャとは、文字通り訳すと「自由」です。

何からの自由なのかというと、「常に何かになろうとしている自分からの自由」です。

人間の最終的なゴールと呼ばれるにふさわしい、

本当のモークシャは永遠でなければなりません。

しかし、永遠とか永遠でないものについてきちんと考えないゆえに、

時間制限付きのモークシャで手を打つのです。

永遠といったテーマについてきちんとした考えを持っていないがゆえに、

宗教家やスピリチュアル・リーダーとよばれる人々が、

「人生にゴールなんてありません」といった無責任な言葉を発しているのが

現在の日本の状況です。


しかし、私達人間にはもっときちんと考えられるブッディ(思考力)が与えられています。

今一度、きちんと考えて見ましょう。

きちんとした考えを助けるのが、ヴェーダーンタの伝統なのです。


楽しい経験をしている時、瞑想という経験をしている時、

平和な気持ちを経験している時、などの経験は、

時間制限つきの相対的なモークシャです。

5秒間なり、1分間なり、1年間なり、惨めな自分のことを忘れていられる時間を、

「幸せ」つまり「(相対的な)モークシャ」と定義づけ、

それを夢見て追いかけ続けて一生を過ごします。

ジタバタして頑張って、至福の時間を経験しても、時間が切れれば、

また元の惨めな自分に戻ります。

そんな経験を繰り返しているうちに、とてつもなく幸運な人々は、

お金・権力・人間関係・瞑想・などなどから得られる「経験」を分析し、

それら時間制限付きの幸せの限界を見抜き、興味を失います。

「ニッティヤーニッティヤ・ヴァストゥ・ヴィヴェーカ
(नित्यानित्यवस्तुविवेकः [nityānityavastuvivekaḥ])」

そう、タットヴァ・ボーダ(तत्त्वबोधः [tattvabodhaḥ])ですね。

この世でもあの世でも、宇宙の中で経験できる全ての幸せについて、

限界を見抜いた人が、ヴィヴェーキー(विवेकी [vivekī])、つまり

ヴィヴェーカ(विवेकः [vivekaḥ])を持っている人であり、

その人はムムクシュ(मुमुक्षुः [mumukṣuḥ])と呼ばれます。

時間の範囲内では、相対的ではない、絶対的なモークシャとは、

絶対的な永遠でなければなりません。

絶対的な永遠とは何か。

本当の永遠の意味とは、実はそれを探しているあなたのことなのですよ。

時間の流れを傍観し続けている、時間の範囲内では無い、

こちら側、つまり永遠である、それがあなたなのですよ。

と教えるのがヴェーダーンタなのです。



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 仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(1)

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