2015年4月8日水曜日

53.プラマーナ(प्रमाणम् [pramāṇam])- 知る手段、情報源

प्रमाणम् 
[pramāṇam]


neuter - 知る手段、情報源




プラマーナの語源


「マー(मा [mā])」とは、「知る」と言う意味の動詞の原型です。

「プラ(प्र [pra])」は動詞の前につく接頭語で、それ自体には意味は無いのですが、

「マー(मा [mā])」の意味を他の意味として取られないようにしています。

サンスクリット語で「お母さん」「~してはいけない」という時でも、

「マー(मा [mā])」が使われるからです。

動詞の原型の後についている接尾語は「アナ(अन [ana])」です。

「アナ(अन [ana])」には様々な意味がありますが、ここでは「~する手段」です。

全部併せると、「プラ+マー(知る)」+「アナ(~する手段)」、

つまり、「プラマーナ(知る手段、それによって知れるもの)」という言葉が出来上がります。

サンスクリットの文法って難しくないでしょ?でしょ?



プラマーナとは


対象物は何であれ、人間が何かを知る時には、

「その対象物を知る手段」つまり「プラマーナ」が必要です。

プラマーナを通してのみ、人は何かを知ることが出来るのです。

色や形を知るためには、「視覚」というプラマーナを使う。

音を知るためには、「聴覚」というプラマーナを使う。

明日晴れるかどうかを知るためには、目で見たデータを元にして、

それを論理的に処理して結果に導く「推測」というプラマーナを使う。

このように、プラマーナは何種類かに分類できます。


(カタカナばっかりになってしまうので、要点だけを押さえて簡素化しました。)

自分の身体の中に与えられたプラマーナ

1.五感

         i.    プラッティヤクシャ(五感)
        ii. サークシー・プラッティヤクシャ(空腹感など)

2.推論(五感から得たデータが元)

         i.    アヌマーナ
        ii. アルターパッティ
       iii. ウパマーナ
       vi. アヌーパラブディ
 と、4つありますが、全ては五感から得たデータに基づいて
 それを分析したものだと分かればそれでOKです。
 
自分の身体の外にあるプラマーナ

3.言葉

 a. パウルシェーヤ(人間の思考からの言葉)

         i.    出所が五感 「今朝あの人に会ったよ~」
        ii. 出所が推論 「顔色悪かったらきっと風邪引いたんだろうね」
       iii. 出所がアパウルシェーヤ … バガヴァッド・ギーターなど(スムルティ)

 b. アパウルシェーヤ(人間の思考からではない言葉)

         i.    独立したプラマーナ … ヴェーダ(シュルティ)



プラマーナである条件


・ 他のプラマーナと相反してはならない (अबाधितम्)

例えば、目の前のコップが2つに見える。しかし、触ったら1個だった。

視覚と触覚の2つのプラマーナが相反しています。

この場合は、視覚と言うプラマーナに欠陥があるので、メガネなどで補正する必要があります。


・ 他のプラマーナとかぶらない   (अनधिगतम्)

それぞれのプラマーナは、それぞれのエリアをカヴァーしていて、

他のプラマーナのエリアと重なったりしません。

例えば「視覚を使って聞いたりすることは出来ない」ということです。

当たり前すぎるようですが、ヴェーダで教えられている知識を正しく知ろうとする時に、

必ず前提として知っておくべきことです。

また、他の既存のプラマーナとかぶっているなら、

もうひとつのプラマーナとして数えられることは出来ません。


・ プラマーナを使う人に利益をもたらさなくてはならない。(फलवत्त्वम्)

これは言葉(シャブダ)がプラマーナである時に必要な条件です。

わざわざ言葉を使って、聞き手に何かを伝えているのですから、

聞き手の役に立つ新しい情報を提供するものでなければなりません。


プラマーナとして認められないもの


上で見た条件から、プラマーナとして認められないものをあげて見ると、、

・ 個人的な意見
・ 詩、作り話
・ 出鱈目、デマ
・ 直感、夢、お告げ、etc.

・ 言葉がプラマーナである場合:
  ・ 五感や推論に反するもの (अबाधितम्)
  ・ 聞き手の役に立たないもの (फलवत्त्वम्)
 
  ・ 言葉がプラマーナで、さらにアパウルシェーヤの場合:
    ・ 五感や推論で到達できる情報 (अनधिगतम्)



プラマーナに関する混乱が、情報リテラシーのレベルを下げる


無責任で利己的なな情報が溢れる中、自分自身の情報リテラシーのレベルが

落ちぶれないように常に気をつけないと、

プラマーナと呼ぶに値しないものを、プラマーナとしてとらえて論じ始め、

プラマーナと呼ばれるべきものを、「個人の意見」として片付けてしまう、

そんな混乱を自分自身の頭の中に招いてしまうのです。



何を知るために、どのプラマーナを使うか?


色や形を知るためには、視覚と言うプラマーナを使う。

こんなことは当たり前です。

では、自分自身を知るためには、どのプラマーナが適しているのか?

古今東西、自分と世界の真理を知る為の試みが、

哲学や宗教という名の下に続けられてきました。

哲学や宗教は、以下の情報の下に成り立っています。

A. 五感を基にした推論
B. 個人的なアイディア
C. 神様からのお告げ

哲学や宗教は、自分自身を知る為に適したプラマーナなのでしょうか?

A. 五感を基にした推論 では無理

五感や推論は、自分以外の対象物を対象化する為のプラマーナです。

世界のみならず、自分の身体や思考、感情も対象化し続けている、

意識的な主体=私を知る為に、五感や推論は使えません。


B. 個人的なアイディア
C. 神様からのお告げ でも無理

出所は五感では無いですが、

五感や推論に反するものであったり、(永遠の天国、無形で男性の神様など)

聞き手の幸せに貢献するものでなかったりするからです。(あなたは罪人です、など)




ヴェーダーンタ・プラマーナ


ヴェーダの最後の部分を、ヴェーダーンタ、或いはウパニシャッドと呼びます。

ヴェーダーンタは、自分と世界の本質を知る為の手段、

つまりプラマーナとして扱われています。


ヴェーダーンタを理解する為の伝統な論理手法として、

ウッタラ・ミーマームサーと呼ばれる学問があります。

そこでは、ヴェーダーンタのプラマーナとしての有効性が論理的に明らかされ、

さらに、プラマーナであるヴェーダーンタの教えの有効性が論理的に明らかにされます。


プラマーナ不在の精神世界マーケット


情報リテラシーに関して注意深くあるべきと常に気をつけていなければ、

ただでさえ正しい知識活動をするのは難しいのに、

一度「精神世界」「スピリチュアル」「宗教」の話になると、

人間の知能とは、局部麻酔にでもかけられた様に、機能を停止してしまうようです。


世界中に溢れている、「スピリチュアル」「エンライトメント」「サマーディ」

「覚醒」「解脱」「涅槃」「セルフ・ナレッジ」といったアイディアは、

どれも手探りの情報で、プラマーナと呼べるものではありません。

南インドのもっと南では、「自分自身について知りたければ、自分自身に聞けばよい」

と教えて瞑想を推奨し、プラマーナが何かなどとは考える余地も与えません。

どれも全ては、体験を追いかけるものばかりで、

体験者の本質を理解することと、人間の幸せとの関係を教えるものはありません。

インスパイアはしてくれても、辻褄の合う「教え」が無いのです。

体験を追いかけ、理屈に合わないけど、なんとなく気分のいい話を聞いていると、

それなりに満足感や心の平安を、一時的に与えることは出来るかもしれませんが、

一時的な体験であることから、ショッピングや旅行や晩酌と同じで、

根本的な解決には成り得ないのです。

プラマーナに関する質疑応答「質問:ヴェーダーンタは哲学ではないとは?



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