2014年11月22日土曜日

37.コーシャ(कोशः [kośaḥ])- (剣や刀を収める)鞘(さや)、被覆するもの

कोशः
[kośaḥ] 


masculine - (剣や刀を収める)鞘(さや)、被覆するもの





ヨガ・インストラクター養成講座や本などを通して、ヨガ哲学らしきものを勉強した人なら

聞き覚えのある言葉 - 「パンチャ・コーシャ」のコーシャです。

「パンチャ」とは数字の5です。直訳すると「5つの鞘(さや)」となります。


パンチャ・コーシャの意味


この「パンチャ・コーシャ」という言葉は、間違った理解&あいまいな理解が

先走りしている、ヨガ用語の代表的なひとつです。


「パンチャコーシャ」の間違った理解の一般例
アートマンって一番ちっちゃいの?
外は全部捨てちゃっていいの?


サンスクリット語によって代々教え継がれている、

正しい伝統に沿った意味を、ここでは日本語で、分かり易く説明します。


ちなみに、「分かり易く」とは、単純化しているのではありません。

伝統的でないインド哲学に氾濫している「神秘的な言葉遊び」をしない、ということです。

教えとは、先生から生徒への言葉を通したコミュニケーションです。

聞き手が理解出来て、初めてコミュニケーションなのです。



ではまず、自分や世界のことを理解するために、

なぜ「コーシャ(鞘)」という概念が使われるのか?

伝統的に言われる理由は2つあります。


理由1: 自分が見つかる場所だから。


この部屋の中に剣があるとしたら、その剣はどこにある?

と聞かれたら、まず鞘を探しますよね。

鞘が見つかれば、そこに剣がある、と認識する。

同じように、「あなたは何処にいますか?」「あなたは誰?」と聞かれた時に、

人間は誰でも、だいたいこの5つのコーシャのどれかを基準にして、

「私は~にいる」、「私は~だ」と答えます。



理由2: 鞘のように隠すから

上で見たように、「私」=「~~(誰それ)」という自己認識の右辺の部分として、

認識されているのが、この5つのコーシャです。

私が、5つのどれでも有り得る、ということは、私は5つの全てであり、

同時に、本質的には5つのどれでも無い、ということでもあります。

私の本質は、5つのうちのどれでも無いのに、

「私は~だ」とはっきり答えてしまうのは、自分の本質が理解出来ていない証拠です。

それゆえに、自分の本質を取り違えてしまう対象、

という意味で「コーシャ」が使われています。



では、5つのコーシャをひとつづつ見て行きましょう。


1.アンナマヤ・コーシャ(物質的な身体)


「私は太っている」「私は痩せている」「私の背は高い」などと言う時、

その人は、食べ物の変化によって作られた物質的な体で自分を認識しています。

太っていることや瘦せていること、背の高さや鼻の高さは、

自分の存在、「私は今ここに居る」という意識的存在とは何の関係もありません。

なのに、慣習的に体で自己認識をしてしまいます。

このように、「自分」という言葉の意味として認識されている物理的身体のことを、

アンナマヤ・コーシャと言います。


2.プラーナマヤ・コーシャ(生理機能的な身体) 


「私は元気だ」「私は病気を患っている」「お腹が空いた」と言う時の、

自己認識の対象を、プラーナマヤ・コーシャと呼びます。


3.マノーマヤ・コーシャ(流動的な心の機能)

「私は悲しい」「私は怒っている」「どうしようかな」「こんなのいいかな」と言う時、

常に移り変わる心の動きで自己認識をしています。

心を池の水に例えると、心の動きは水の表面に現れるさざ波のようです。

波の形が、感情や考えの形と例えられます。

心理的法則に従って、ありとあらゆることを、次から次へと自動的に、

波紋のように、感情や考えは表れ続けます。

そんな心の状態で自分を認識しているとき、

その人は、マノーマヤ・コーシャにおいて自己認識をしていると言えます。


4.ヴィッギャーナマヤ・コーシャ(しっかりした思考能力、私という個体認識)

マノーマヤ・コーシャにおいての考えが流動的で自動的であるのに対して、

理知や分析、智恵や道徳心を使って、自分なりに出した結論や決心によって、

「こうあるべきだ」「こうするべきだ」「こうに違いない」

と考えている時、その人はヴィッギャーナマヤ・コーシャによって自己認識をしています。

また、「アハンカーラ」と呼ばれる心理機能も、ヴィッギャーナマヤ・コーシャに含まれます。

アハンカーラとは、「私は~~だ」の「~~」の部分を探し、

「私は~~だ」という文章を完成させる心理機能です。

これは、生活をする上で必要な機能です。

「アハンカーラを捨てろ!」とかいう台詞をよく聞きますが、

捨てるのは無理ですし、捨てる必要もありません。

アハンカーラを、アハンカーラという心理機能として認識していればいいだけです。

さらに、望ましい結果の期待できる行動をしている時の、

「私が~をする」「私は~をしている」という行動の主体として自分を認識するのも、

ヴィッギャーナマヤ・コーシャにある機能です。



5.アーナンダマヤ・コーシャ(幸せを感じている心)


どんな不幸な状況に置かれていても、人は、時折起こる小さな出来事や大きな出来事で、

幸せを感じながら生きています。

幸せを感じている時とは、どんな時でしょうか?

それはずばり、自分の抱えている問題や、コンプレックスを忘れている時です。

例えば、平和な動物や風景を見ている時、

音楽を聴いている時、自分の好きな人やものと一緒に過ごしている時、寝ている時、、、

そんな時の気持ちが、アーナンダマヤ・コーシャです。

ただシンプルな幸せな気持ちです。

ヨガ・スクールが提唱するような瞑想など必要ありません。


そして、その気持ちで自分を認識している時、つまり、

「あー、幸せ」と感じている時、衝突の無い、平和な時間を楽しんでいる時、

私は、アーナンダマヤ・コーシャで自己認識をしていると言えます。


私達は皆、幸せになりたくて、言い換えると、この「幸せな私」を再現するが為に、

毎日、一生の間ずっと奔走しています。

つまり、この「幸せな気持ち」で自己認識している自分は、

体、心、知能など、他のコーシャで自己認識している自分達の全ての

ボスなのです。全ての動機は、シンプルに「幸せになりたい」だけなのです。



「パンチャ・コーシャ・ヴィヴェーカ」

5つ(パンチャ)の鞘(コーシャ)という概念を使った、

自分の本質とそれ以外を見分ける為の分析(ヴィヴェーカ)。

これは、タイッティリーヤ・ウパニシャッドがベースになっていますが、

タイッティリーヤ・ウパニシャッドの中では「コーシャ」という言葉は一回も使われていません。



物質的に見て、この体は、宇宙全体の一部です。

この宇宙のかけらをもらって、体が生まれて、死んだらまた宇宙に返ります。

生きている間も、呼吸や新陳代謝を通して、物質的な交換が行われています。

ゆえに、この体は宇宙全体の「一部」として切り離すことすら出来なくなります。

そんな物質的な体を「私」たらしめているのは、、

生理学的機能。生きてこそ「私」です。

私だけでなく、全人類、哺乳類、昆虫、微生物など、全ての生き物は、

生理学的機能により生かされており、その原理は同じです。

そして宇宙人でもデーヴァ(天国の住人)でも、彼らが生きていられるのは、

私達にも共通している、生理学的機能のおかげです。


生きてたら考えたり、感じたりします。

心理学的反応とも呼べる機械的な考え、思考判断に基づく結論、幸福感、

全ては、脳内のシナプス間の電流という物理的なものです。

全ての生き物、地球上のみならず、どの場所でも、どの時間においても、原理は同じです。


それを「私」たらしめているのは、、

今ここに居る私ですね。

どこに探しに行く必要も無い私です。




「パンチャ・コーシャ」の理解の重要なポイントは、

「パンチャ・コーシャ」のどの部分も、宇宙とは切り離せない。

という事実です。


これを理解するのに必要な知識は、一般常識の範囲の自然科学で十分です。

中学校や高校のレベルの数学、生物学、化学、物理学、地学、天文学、心理学、

これらの知識は、「自分はどの部分をとっても、宇宙と切り離せない存在だ」

と言い切るのに十分な理論的バックアップを与えてくれます。

「パンチャ・コーシャ」は、理解の対象である事実を教えるためのモデルです。

神秘的な体験や実践を謳う言葉の集合ではありません。

多くの人々が、神秘的(ミスティック)な言葉にほだされています。

神秘的とは何でしょうか。
  • 理屈が通っていない。
  • 聞き手が理解出来ていない。
  • 話し手も自分が何を言っているか分かっていない。

というのが神秘的と言うものです。

そういうものは、一時的に良い気分にしてくれるかもしれませんが、

根本的な問題の解決にならないどころか、より遠ざけてしまいます。





<< 前回の言葉 36.केवल [kevala] - ケーヴァラ <<
   
たった一つの、唯一のという意味のサンスクリット語の言葉です。
なぜ一つであることと、幸せとが関係しているのか、じっくりヴェーダの教えの伝統に沿って説明します。



>> 次回の言葉 38.कोटिः [koṭiḥ] - コーティ >>

数え切れないほど大きな数、という意味のサンスクリット語です。

2014年11月16日日曜日

34.クリシュナ(कृष्णः [kṛṣṇaḥ])

कृष्णः 
[kṛṣṇaḥ] 

masculine - クリシュナ


インド関係のことを少しでも知っている人なら

誰でも知っているだろう、ということで、

クリシュナ、といきなり固有名詞を訳にいれました。

孔雀の羽をつけて、

笛を持って、

いつも微笑んでいて、

青黒い肌をした、

牛飼いのハンサムボーイ、

という容姿が伝統で私達に与えられています。


このような容姿や形のことを、伝統的には「ウパーサナ・ムールティ」と呼びます。

私達の心は、色、形状、音などの「フォーム」とやりとりするように出来ています。

色や形が無い、抽象的で、形而上のアイディアであっても、

私達の経験や考えの全ては、最終的には、脳波の形です。


なぜ、ウパーサナ・ムールティが伝統の中で教えられているのでしょうか?


なぜ、このような容姿が伝統で教えられているのか?



神様とは?全知全能とは?私達は何処から来た?

何のために生きている?死んだらどうなる?

この世の意味は?


といった人間として基本的な探求をする時に、

その人の心を、こういった容姿や形のものに持って行くと、

水先案内人のように、スムーズに答えに導いてくれますよ。

と伝統が教えているのです。

バガヴァッド・ギーターの冒頭の詩で、

रणनदी पाण्डवैः सोत्तीर्णा, कैवर्तकः केशवः ॥

’このマハーバーラタ戦争という、とても超え難い川を、

パーンダヴァ達は越す事が出来た。

なぜなら、ケーシャヴァ(クリシュナ)が水先案内人をしていたから。”

とあります。


クリシュナを味方につけるということは、

グレース(幸運)という、全ての成功に必要な要素の存在を認めて、

グレースを手に入れるために、ちゃんと手を打っている、と言う事です。


さらに、バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナが教えを説きます。

先生を水先案内人として置く、ということは、

先生の教える智慧に、自分の思考とその基準を沿わせる、ということです。

道に迷ったら、出口を知っている人に道を聞くのと同じ事です。




ヴィシュヌ神の化身(アヴァターラ)とは?


クリシュナって誰?と聞くと、すぐに返ってくる答えが、

「ヴィシュヌ神の化身」「ヴィシュヌ・アヴァターラ」

ですが、それを聞いて何を分れと言うのでしょうか?

ヴィシュヌって誰?

神様に決まってるじゃん!

って、当たり前のように言ってるけど、

神様って誰よ?化身って一体何?


「神」の定義を試みてみましょう


宗教を持っている人も、持っていない人も、

「神様が、、」とか、「神様はいるの?」とか、「神様なんかいない!」とかも、

あたかも既に、神様が誰か知っているのが前提になっています。

それって、とっても変ですね。人間って面白いものです。

信仰の厚い人でさえも、「神様って何???」ってちゃんと真面目に考えている人は、

この世に殆どいないように見受けられます。


一般的に定義されている、神様とは、、、

「信仰の対象」― 信じないと存在出来無い神様なんて、頼りになるのでしょうか?

「人知を超えた存在」― 要するに、解からない、知らないってことでしょ?

そんな掴みどころのない神様に、世界の人口の殆どが、

すがりついたり、人生を捧げたりしている事自体が、摩訶不思議に他なりません。


今までの手垢のついた「神」の曖昧な定義は横において、

今から、一からきちんと定義しなおしてみましょう。

まず大前提として、「神」とは、信じる対象ではなく、理解されるべき対象である。

ということです。

全世界の大多数は、「神」と言ったとたんに、知能がOFFになっています。

大事な事は、知能をONにして、ちゃんと正面に向かって、考えるべきです。


「全知全能」というのが、神様によくついてくる形容詞ですね。

全知 = 全部知ってる。

私が今何を考えているとか、どんな状況に置かれているとか、

いちいち報告しないと知らなかったり、報告しても気づいてくれなかったりするのは神様じゃない。

私の考えも、自然環境の在り方も、宇宙の動きも、全て、

脳神経学、生物学、物理学、素粒子物理学、、、などの知識の表れです。

その識のて = 全知 

が、「全知」という言葉の本当の意味です。

これは、信じる必要性の全くない、理解出来ることです。

そして、理解されるべき事です。


全能 = 全ての能力

先ほど見た、「全ての知識」が、私の考えや体や、飼い猫や、お隣さんや、

政治情勢や、環境問題も含む、全ての「宇宙」として現れるために必要な能力のことです。

これも、信じるとか信じないとかいった議論ではないですね。


「全知全能」とは、理解し、認識するべき対象なのです。



全知全能の本当の意味が理解出来たら、

見るもの全ては全知全能の神の表れです。

しかし、そんなことを言われても、

「スケールが大きすぎて、把握できない。。」

というのが、人間の頭脳です。

それゆえに、理解につながるための第一段階として、

人間の頭脳で把握できる、「形」が伝統の中で提唱されているのです。

それが、ヴィシュヌであり、クリシュナであり、シヴァであり、ドゥルガーであり、、、

と人間の好みの数だけ、神様の形も用意されているのです。




「アヴァターラ」とは?



この前の、「ケーシャヴァ」の回で説明しています。

ヴィシュヌのアヴァターラとして良く知られているのがラーマとクリシュナ、

そして、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダもヴィシュヌのアヴァターラとして数えられています。

コーダンダという名の彼しか扱えない大きな弓を持って、
直立しているのが、ラーマの姿勢。
ダルマ=正義を表している。


いっぽう、クリシュナは笛を持って、
体をくねらせているのがいつものポーズ。
アーナンダ=幸せを表している。

ラーマが象徴するダルマ(正義、宇宙の秩序との調和)があって、

初めて、クリシュナの象徴するアーナンダが可能なのです。


ではでは、本題のクリシュナの意味を見てみましょう。


クリシュナの意味



1.永遠の幸福



कृष्णः [kṛṣṇaḥ] は、कृष् [kṛṣ] という動詞の原形から派生しています。

कृष् [kṛṣ] とは、「存在する」という意味です。

ण [ṇa] は、「幸福」を表しています。

伝統で語り継がれているクリシュナの容姿は、常に幸福を表しています。

笛を吹いたり、ダンスをしたり、周りの人達を皆幸せにしたり。。。

しかし、「存在する」を「幸福」とがどう繋がって、クリシュナになるのか?

आकृष् [ākṛṣ] という動詞の原形は「魅了する、心を引き付ける」という意味です。

人は誰でも、心が惹きつけられるものに幸せを見出します。

しかし、どんな幸せも長く続きません。

この宇宙の中にあるもの全ては、常に変わり続けているからです。

変化し続けているものは、それが「在る」といった瞬間に、既に変化しています。

私達の心も体も、物理的、心理的、様々なレベルで、変化し続けています。

そういったものを「絶対的な存在」と呼ぶ事は出来ません。

しかし、「じゃあ、無い」とも言えません。

私はここにいるし、つま先を机の角にぶつければ痛い。

つま先は在るし、机も在る。

姑に何か言われたらムカつく、ってことは、姑はいるし、ムカつく心も在る。

時間とともに生まれては無くなるものばかりだけど、ある、と言える。

その「在る」が、कृष् [kṛṣ] の意味である、「存在する」です。

そして、それが「幸福」のण [ṇa] なのです。

なぜ?

今までの人生の中で、来ては去っていった、沢山の幸せな時間を思い出してください。

私を幸せにしてくれた状況は、常に変化し続けている、宇宙の中の出来事でした。

その中で、常に、一定して在ったもの、、、

それは、「私」でした。

「存在」と「幸せ」のつながりが見えましたか?

そして、それが、私達が常に追いかけ続けているもの、心を惹きつけているものなのです。




2.青黒い色をした者



これが、上で言われている「ウパーサナ・ムールティ」のことです。




<< 前回の言葉 33.クリパー(कृपा [kṛpā])<<

マハーバーラタの戦い、アルジュナの心理、
バガヴァッド・ギーターの背景などを説明します。


   

>> 次回の言葉 35.ケーシャヴァ(केशवः [keśavaḥ])>>
          
クリシュナの別名、ケーシャヴァについてサンスクリット語文法を交えて説明します。

2014年11月8日土曜日

33.クリパー(कृपा [kṛpā])- 思いやり、優しさ、深い共感

कृपा
[kṛpā]


feminine - 思いやり、優しさ、深い共感





== कृपा [kṛpā] - クリパー が使われている文献 ==


कृपया परयाविष्टो विषीदन्निदमब्रवीत् ।
kṛpayā parayāviṣṭo viṣīdannidamabravīt |

バガヴァッドギーター1章28節

”とても深い(parayā)人々を思いやる心に(kṛpayā)打ち響かれた(।āviṣṭaḥ)

アルジュナは、とても悲しくなりながら(viṣīdan)言いました。(idamabravīt)”


この詩のバックグラウンド


バガヴァッドギーター1章のこの部分は、

マハーバーラタ戦争が今まさに始まろうとしている時、

主人公であり、正義を通すために戦うパーンダヴァ軍のトップであるアルジュナが、

戦車を止めて戦場を見渡した時、

そこには自分の愛する家族、先生、友人、親戚達が両軍に配置され、

これから愛する者同士で殺し合いをしなければならないという、

想像を絶する境遇に置かれている現実を目の当たりにした時の一節です。


勇敢なアルジュナが、真っ青になって愕然とし、

意識朦朧としている様子をクリシュナに伝えるところです。


アルジュナは「クシャットリア」という、王家に属している身分で、

国を統治したり、民衆のために戦ったり、勧善懲悪の為に尽くすのが、

与えられた役目です。


バガヴァッド・ギーターとは?


ここで、バガヴァッド・ギーターの説明を。。

バガヴァッド・ギーターはマハーバーラタという壮大な叙事詩の中に収められている、

18章、700節からなる小さなセクションです。

なぜこの部分だけクローズアップされて特別に扱われているかというと、

1.ブランマの知識
2.それを知るための成長した心を造る方法=ヨーガ(YOGA,ヨガ)

が凝縮して、バガヴァーン・クリシュナによって直接教えられているからです。


バガヴァッド・ギーターが始まる前の、マハーバーラタの話の中でも、

クリシュナもアルジュナも登場しますが、彼が教え始めるのは、

バガヴァッド・ギーターの2章からです。

2章で初めて、アルジュナが生まれて初めて、幼馴染のクリシュナに教えを請うのです。

マハーバーラタ戦争が今まさに始まろうとしている時、
アルジュナが人間の根本的な問題に気付き、
クリシュナに教えを請います。


教えを請われて初めて、उपदेशः [upadeśaḥ] ティーチング(教え)が始まるのです。

この教えは、頼んでもいない人に、教えるものではないからです。

アルジュナが「教えてください」と言い出すには、バックグランドがあります。

マハーバーラタの以前の部分で、この戦争に至るまでの、

何世代も前からのバックグランドが描かれています。



マハーバーラタ戦争に至るまでのあらすじ



あらすじをまとめると、、、

クルという王国は跡継ぎを必要としていました。

武力に秀でて、品行も正しく、なにより正義とは何かを体現している、

パーンダヴァと呼ばれる王子5人兄弟が、疑いのない候補でした。

才能に長け、皆から愛され、皆を愛しているパーンダヴァ達を、

彼らのいとこであるドゥリヨーダナは、ひどく嫉妬していました。

ドゥリヨーダナと99人の兄弟は、嫉妬に駆られるままに、

非合法的、非道徳的、暴力的な手段で、

パーンダヴァ達の破壊を、事あるごとに試みてきました。

身内の中での争いを好まないパーンダヴァ5人兄弟は、

ドゥリヨーダナ達の悪行に目をつむって甘んじている間、

事態は悪化する一方でした。

身内同士での戦争を避ける為に、数々の侮辱を受け入れ続けたれども、

ドゥリヨーダナの悪行は度を過ぎ、これ以上放置すると、

社会全体が無秩序になるというところまでになり、

パーンダヴァ達が、ドゥリヨーダナ達と戦争をする他ならない状況になりました。

正義という秩序を守るのが、クシャットリアであるパーンダヴァ達の義務だからです。



アルジュナの葛藤



しかし、両軍とも身内ばかりです。

しかも、ドゥリヨーダナは卑怯な手で、パーンダヴァ達に関係の深い人々に、

恩を着せて、自分の軍で戦うように囲っていました。


これが、マハーバーラタで伝えられているバックグランドです。


そして、バガヴァッド・ギーターの1章では、

両軍の中に、親しく愛しく尊敬する人々ばかりを見つけている、

凄まじい痛みと葛藤に襲われたアルジュナの心境が描かれています。


「正義の為と言っても、お世話になった人や身内を殺すなんて事は出来無い。

戦争に勝って王国を手に入れたところで、全ては自分が殺した親戚の血で染まっている。

自分は何も欲しいものは無いのだから、このままリシケシにでも言って、

サドゥーになって、乞食をしながら暮らしたほうがいい。」

と言い出します。



伝統的正しいヴェーダーンタの教えの必要性

1.アルジュナは家族に執着しているのか?



最近のヴェーダーンタでは、アルジュナの壮絶な心境を、

「家族に対するアタッチメント」

と軽く言ってのけますが、それはとっても危険です。

身内を陥れて殺すことを躊躇しないドゥリヨーダナの方が、

「家族に対するアタッチメント」がなくて、よりスピリチュアル♪といった、

とんでもない論議に展開してしまいます。

スビリチュアル=家族や社会生活を大切にしない

というとんでもない勘違いが罷り通っています。これは絶対に間違っています。


ヴェーダーンタは、伝統的に、本当にちゃんとした教え方がされなければ、

とても、とても危険なので、気をつけましょう。


アルジュナがこの状況で苦しんでいるのは、

彼の精神的豊かさの表れの他なりません。

それが、バガヴァッド・ギーターの詩節のながで、

「कृपा [kṛpā] - クリパー」という言葉で表されているのです。

身内を殺したくないと思うのは、人間として当然のことです。

究極的な立場に追い詰められても、人間性を失わないでいられるのは、

彼が「कृपा [kṛpā] - クリパー」を持っている証拠です。

だからこそ、この状況で、人間として最も基本的な疑問にぶつかるのです。

「自分は何の為に生きているのか?」

「何が人間にとって真実の意味で良いことのなのか?」

そして、それにクリシュナが答えるのです。



伝統的正しいヴェーダーンタの教えの必要性

2.クリシュナは、戦争をけしかけているのか?



これもよくある解釈です。

「インド国民に、パキスタンに対しての戦闘意識を植え付けるために、

ギーターが教えられている」

といった、いかにもキリスト教宣教師が吹聴したような、

トンチンカンな噂が横行していると聞きます。


人間にとって最も大事で根本的な価値は、

「अहिंसा [ahiṃsā] アヒムサー(非暴力)」である、

とう教えが、バガヴァッド・ギーターの中で何回も出てきます。

ギーターのメッセージは、戦うことそのものではありません。


バガヴァッド・ギーターのメッセージは、

「人は誰でも、その人に与えられた義務を遂行することによって、

人間として成長出来る。家庭や社会の役割を果たす事が、ヨーガなのだ」

ということです。

クリシュナは、教えを請われる前の冒頭に、

「まぁ、つべこべ言わずに、戦いな」と助言します。

この部分は、バガヴァッド・ギーターの教えの部分ではありません。

まだバックグラウンドの部分です。

そのあと、アルジュナに、人間の基本的な問題への答えを教えるように請われてからは、

けしかけたり、助言したりは、一切しません。

クリシュナは、教え出すのです。


全ての人間のみならず、全ての生き物が探している、本当のもの。

本人達は気付いていないけど、全人類が、それとは知らずに、

追いかけ続けている、その本当のもの。

私達は、本当は何が欲しくて、毎日汗をかいたり、苦労したり、

泣いたり、笑ったりしながら、一生掛けて駆けずり回っているのか?


その答えをクリシュナは教えます。

そして、その答えを理解するには、理解する為の「心」が必要です。

「心」が、理解出来るくらいに成長していなければ、

答えを聞かされても、馬に念仏です。


その成長した「心」を育てる為にはどうしたらいいのか?

その方法が「ヨーガ」として、バガヴァッド・ギーターの中で教えられています。

心を成長させるものは、全てヨーガです。

結婚生活も、子育ても、社会貢献も、その人の理解と心がけで、

全て大事なヨーガになるのです。


どんな役割も、それぞれの人に、運命と言う名のもとに与えられています。

役割には、自然と義務が付随します。

これが宇宙の在り方なのです。

役割に与えられた義務を果たす事は、宇宙の秩序と調和する事です。

その人の行動や在り方の全てが、宇宙と調和するようになったとき、

「私が宇宙だ」と言えるぐらい、心の大きな人間に成長しているのです。


それらを何度も繰り返してしっかり教えた後、18章でクリシュナはアルジュナに言います。

「教えるべきことは教えたから、あとは、自分のしたいようにしなさい。」




伝統的正しいヴェーダーンタの教えの必要性

3.義務とはいえ、家族内の戦争で殺し合いをするのは、極端すぎ?



もちろんそうです。

与えられた役割の義務を果たす事がヨーガなら、

役割が母親で、義務がお弁当を作ること、でも良いのです。

しかし、あまり地味な設定では、

全世界、全時代の人々の心を揺さぶる超大作ドラマになりえません。

そして、「お弁当作るぐらいなら出来るけど、朝5時起きはいや」とかいった、

否定できる可能性を残さない為に、

人間として、一番究極に辛い行為が取り上げられているのです。

これを、「प्रथम-मल्ल-न्यायः [prathama-malla-nyāyaḥ](プラタマ・マッラ・ニャーヤ)」と言います。

直訳すると、「レスリング・チャンピオンの例え」です。

今年のチャンピオンを決めるには、今年のトーナメントで勝ち残ったチャンピオンと、

去年のチャンピオンを戦わせればOK。という例えです。


上にも述べたように、ギーターの教えるヨーガの、

根本的価値を支えているベースは「アヒムサー(非暴力)」です。

この言葉がギーターの中に何度も出てきます。

バガヴァッド・ギーターのメッセージは、戦う事そのものにはありません。


全ての人の置かれた立場に対応出来るように、最も極端な義務を使って教えているのです。


伝統的正しいヴェーダーンタの教えの必要性



4.伝統的教えを知らなければ、大学教授であってもトンチンカンな解釈しか出来無い。




ヴェーダーンタ、ウパニシャッド、バガヴァッドギーター、そしてヴェーダ全般、

その他の文献の理解には、伝統的教授法というのがあります。

はっきり申し上げますが、インドでも、日本でも、

大学などの機関には、伝統的教授法はありません。

あるとすれば、間違った解釈の教授法が伝統になっているだけです。

いくらサンスクリットの文法に精通していたとしても、

これらの文献は文面をたどるだけでは理解出来るようには出来ていません。

私はインドで、ヴェーダーンタを学ぶことを志す世界中から来た生徒達に、

伝統的方法で(パーニニ)サンスクリットを教えていますが、

「代々続くヴェーダーンタの先生達の教えを受け取るために、

サンスクリットと勉強しているのですよ。

自分で勝手に読み進めるために勉強しているのではありません。」

と口をすっぱくして教えています。

先生の助け無しに文法の知識だけで文献を読んでみると、

トンチンカンな意味しか出てこない、そんな仕掛けがいっぱいあるのを、

実際に例を挙げて、生徒達に見せています。

先生について勉強しない人には、

ヴェーダはその本当の意味を見せないように出来ているのです。


大学教授達がウパニシャッドやギーターに関して研究して書いた文献、

さらにそれを元にして書かれたであろう文献が世間に出回っている文献の大多数を占めますが、

トンチンカンな解釈ばかりです。

こうして多くの誠実な生徒達が、間違った解釈に連れて行かれているのです。



バガヴァッド・ギーターの正しい理解の助けになれば幸いです。



「कृपा [kṛpā] - クリパー」の意味と、その育て方



ちなみに、「कृपा [kṛpā] - クリパー」という言葉の意味である、

「思いやり」「やさしさ」「深い共感」「愛情」というものは、

自然に出てくるもの、と思われがちです。

誰にだって、このような心のあり方を持っています。

スピリチュアリティー、もしくはもっと簡単に、人間として成長すること、

実用的に言うと、メンタルが強く、大きい人になる、というのは全て、

これらの心の在り方を、意識して培い、育てていく事です。


「思いやり」「やさしさ」「深い共感」「愛情」の深い人間へと成長する方法は?

答えは簡単。

今の自分があたかも、ものすごく深い「思いやり」「やさしさ」「深い共感」「愛情」を

持っているかのように振舞う事です。

例え内面がギクシャクしていたとしても、すぐにそれが自分の自然な振る舞いとなります。


逆に、意識して育てない限り、人間と言うものは、なかなか勝手には育ちません。

この事実が、自分に対しても、他人に対してもしっかり当てはまる事も、

よく覚えておかなければならない事です。






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ヴィシュヌ・アヴァターラのラーマ王、そして
初級サンスクリット語学習法の歴史にも触れます。






 
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 クリシュナの名前の意味を説明します。

2014年11月2日日曜日

念願の「曲線矢印」を書き順に導入! サンスクリット・アルファベット練習帳第2版

ナマステ、

おかげさまで、今年のマハーシヴァラートリー(2月)にリリースした、

サンスクリット・アルファベット練習帳 Vol. 1 & 2 合計1000冊がほぼ完売となったので、

第2版を作ることにしました。

今回は、念願の「曲線矢印」を導入しました。(地味ですが。)


カーヴィーっていいなぁ。

こんな書き順なのです!ってすっきり伝わります。


実は、今日思いついて、今日一日で一気に全部編集し直しました。

明後日までに原稿を印刷に出して、16日のアシュラムのアニヴァーサリーで、

プージャスワミジにリリースしてもらう予定です。

ほんとに、いつもギリギリ。

調べたのですが、Word7の英語版には、曲線の矢印は存在せず、

曲線と、矢印を縮めてつくった arrow head を組み合わせる、といった、

かなり細かくて、地味で、根気を要する作業ですが、頑張りました!

曲線の矢印を入れた書き順の出来上がりが、とても素敵なもんで、

嬉しくて楽しくて、一気に出来てしまいました。

今日は、3年コースの生徒達が皆出掛けていて、

久々にゆっくりヨガでもしようかな~っと思っていたけど、、、またいつかですね。


書き順は、インドなんで、基本どうでも良い、という感じですが、

いちおう、サンスクリットに詳しいスワミジに、以下のサイトを見てもらったら、

これが一番 authentic だと言う事なので、今回はこれに沿って再編集しました。

サンスクリットのアルファベット(デーヴァナーガリー)の書き順サイト
http://chl.anu.edu.au/languages/devanagari/


それぞれのアルファベットの書き方の横に、例の単語を2つずつ載せています。

それらの単語の意味を、ひとうひとつ、このサイトで紹介しているのです。



本作りは、沢山の時間と労力を要します。

いつも皆さんの厚意と助けに恵まれ、支えられて、

短期間で沢山の便利な本を世に送り出すことが出来ています。

本を出すたびに、プージャスワミジに見てもらっているのですが、

いつも「useful.」と褒めてくれます。

これからも、沢山のusefulな本を作り出しながら、

皆で安心して沢山勉強できますように。



ちなみに、


で入手可能です。

売り上げは全てアシュラムの運営に充てられます。

日本や、インド国外で入手希望の方は、私にご連絡下さい。

インドから送付する事も出来ますし、

日本その他の外国での、本の入手&サンスクリットの勉強を出来るところを紹介します。


= 追記 =

2014年11月16日、インドのタミルナドゥ州コインバトールにある、

プージャスワミジのアシュラムの24周年式典で、

プージャスワミジご本人に、第2版のリリースをしていただきました。

皆さん、ご協力ありがとうございました!


36.ケーヴァラ(केवल [kevala])- 唯一の、ただそれだけ

केवल
 [kevala] 


adjective - 唯一の、ただそれだけ





英語で言う「ONLY」です。


アルファベット練習帳の第一版では、केयूरः(腕飾り)だったのだけど、

第二版では、この「केवल [kevala] - ケーヴァラ」という言葉に差し替えました。

ヴェーダーンタに関係する意味のある言葉の方が良いと思ったのと、

次に出てくるकैवल्य [kaivalya](唯一である事)と、

併せて理解出来ると良いと思ったので、変更しました。




この言葉は、ヴェーダーンタを理解するうえでとても大切な言葉です。

ヴェーダーンタは日本語のWikiなどで、「不二一元論」と訳されています。

(私は使いませんが!)

「不二」「一元」「唯一」、、、

どうして「1つであること」がそんなに大事なのでしょうか?

どうしてそれが、人間の幸せに関わるのでしょうか?

天涯孤独のような響きがして、幸せとは反対のような気がしませんか?


「唯一」の定義


ヴェーダーンタが教えるこの「唯一」という言葉を、

まずは、きっちり定義してみましょう。



= 唯一であることの3つの条件 =


1.サジャーティーヤ(同じ種類に属する)・ベーダ(違いが)・ラヒタ(無い事)

सजातीयभेद-रहितम् [sajātīyabheda-rahitam]

花でも、動物でも、無生物でも、同じ種類に属するメンバーは複数あります。

例えば、「木」というジャーティ(種類、クラス)があります。

その中には、リンゴの木、菩提樹の木、ニームの木、、、

といろんなベーダ(違い)があります。


同じ種類に属するメンバーがひとつも無いもの、それが「唯一」の定義のひとつです。

例えば、「空間(space)」というコンセプトの中には種類はありません。

家の外の空間、中の空間、というのは、

壁で区切って考えている人の中にあるコンセプトであって、

空間そのものに種類があるわけではありません。


2.ヴィジャーティーヤ(違う種類に属する)・ベーダ(違いが)・ラヒタ(無い事)

विजातीयभेद-रहितम्  [vijātīyabheda-rahitam]

「木」という種類・クラス以外にも、「石」「山」「哺乳類」など、

様々な種類・クラスが存在します。

そして、それらは、お互いに別々の違い(ベーダ)があります。


空間には、サジャーティーヤ・ベーダは無いけれど、

ヴィジャーティーヤ・ベーダはあります。

空間以外の全てのコンセプトが、ヴィジャーティーヤ・ベーダです。



3.スヴァガタ(それ自身に属する)・ベーダ(違いが)・ラヒタ(無い事)

स्वगतभेदरहितम्   [svagatabhedarahitam]

ひとつの「木」をとっても、それ自身の中には様々なベーダ(違い)が存在します。

幹、枝、根、葉、花、、、それぞれはお互いに違う存在です。

空間には、スヴァガタ・ベーダはありません。空間の何処をとっても空間です。



なぜ、唯一を理解するのが、ヴェーダーンタの理解に関係しているのか?

ヴェーダーンタは、この宇宙の一切の原理が、たった一つだと教えているからです。



しかし、原理がただひとつである事と、私の幸せとに何の関係があるのでしょうか?


「へぇ、昔のインドにはそういう考え方している人達もいたんだね」と、

単にちょっと物知りになって、ヨーガの哲学のクラスで分かったっぽい事を言って、

聞いている人に感心してもらう為でしょうか?

インターネットで、”ヴェーダーンタ”とか”ウパニシャッド”とかを検索してみると、

ウィキペディアを初めとして、数々のサイトが、

「不二一元論」とか「梵我一如」とか、「ブラフマンの悟り」とか、

言葉だけが先走りして、理解を伴っていないであろう語彙達や、

「ヴャーサが開祖」とか「シャンカラが開祖」とかいった、

間違った理解のオンパレードです。まぁ、世の中というのは、そんなもんなんですけど。


言葉というものは、

まず話し手が、使う言葉をちゃんと理解して、自分のものにして、

そして、その言葉を使うことによって、聞き手の幸せに貢献出来るかどうか、

ちゃんと見極めてから使って、

初めて、言葉の本当の役目が果たされるのです。


ヴェーダとは、言葉の集まりです。

ヴェーダというものは、私達の幸せに貢献する為にある、知識の集合体です。

ヴェーダは、私達の幸せの為に、言葉を通して、「唯一であること」を教えてくれます。


しかし、そもそも、「私の幸せ」って何なのでしょうか?


家族や周りの人が皆、健康で笑顔でいられること。

好きな人と一緒にいる時。

好きなものを食べている時、欲しいものを手に入れた時、

好きな音楽を聴いている時、素敵な景色を見ている時、、、

幸せにしてくれる状況は色々あって、状況は常に変わり続けています。

これらに共通していることは何でしょうか?





それは、「幸せな私」です。


10年前に私を幸せにしてくれた状況は、今年の私を幸せにはしてくれません。

代わりに、10年前に何とも感じなかった状況が、今年の私を幸せにしてくれています。

幸せとは、状況のことではなく、「私」のことなのです。


「幸せ」=「私」と言われても、常に幸せを感じているわけではないですよね。

不幸とまで感じる時はしょっちゅう無くても、常々不満に感じることは、誰にでもあります。

幸せを「感じている」時というのは、常々ある不満を「忘れている」時に他なりません。

「自分を忘れさせてくれる経験=幸せな経験」なのです。

もっときっちり定義すると、

「常々自分が自分に対して持っているイメージや考えを、忘れさせてくれる経験=幸せな経験」

となります。

だから人は、寝ている時が幸せなのです。

人間関係、芸術鑑賞、スポーツ、ヨガや瞑想、しいてはお酒や薬物も、

いつも自分が抱いている、モヤモヤやコンプレックスから、気分を解放してくれるから、

幸せに感じさせてくれるから、そちらに向かって行くのです。



思考を逆転してみましょう。

幸せとは、不幸せの反対。不幸せが無い事。

幸せになりたい、って思うことは、デフォルトは不幸せって事、なんです。

では、不幸せって何なのでしょうか?


不幸、不満、コンプレックス、ストレス、モヤモヤ、、、

これら全ての正体は、何なのでしょうか?

つまるところ、これら全ては、自分が自分に対して持っているイメージ、考え、意見です。

そんなもの達は、何処から来たのでしょうか。出所は明らかです。

それは、自分にかかっている「制限」です。

制限って?

「自分は○○であって、××ではない」

「自分の△△は、○○であって、××ではない」

全ての制限はこの2つに集約されます。


不幸、不満、コンプレックス、ストレス、モヤモヤ等を感じているとき、

原因は何かを分析してみると、必ずこの2つのどれかになります。

「私は50歳であって、もう25歳ではない」

「私の所持金はマイナス3000万円であって、プラス1億円では無い」

「私の過去も将来も暗くて、明るくは無い」

「私の、、、」に続くのは、心の状態、体の状態、持ち物、人間関係、

属している国や、政治のあり方、環境のあり方、、、何でも当てはまります。


これらは、全て「制限」と言いましたが、

「ベーダ(भेद [bheda])、違い」と言う事も出来ます。


1.サジャーティーヤ(同じ種類に属する)・ベーダ(違い)

2.ヴィジャーティーヤ(違う種類に属する)・ベーダ(違い)

3.スヴァガタ(それ自身に属する)・ベーダ(違い)


「自分は○○であって、××ではない」

「自分の△△は、○○であって、××ではない」


○○ と ×× が別のものだから、

すなわち、○○ ≠ ×× だから、

不満やコンプレックスが可能なのです。


そして、○○ ≠ ×× という違いは、

上記の3つのベーダ(違い)によって生み出されます。



不幸、不満と、「ベーダ(भेद [bheda])」、違い。

幸せ、私、唯一、「ケーヴァラ(केवल [kevala] )」。

考えるためのツールとして、これらの言葉を使って、

ゆっくり分析してみてください。

続きは、37.कैवल्य [kaivalya] - カイヴァリヤ にて、、、






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クリシュナの別名「美しい髪を持った者」という意味の単語です。








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ヨガ・スクールで必ずと言っていいほど勘違いされて、
間違った意味で教えられている、「パンチャ・コーシャ」
の意味について詳しく説明します。