2015年7月7日火曜日

64.カルマ(कर्म [karma])- 自由意志を使って選んで行う行為

कर्म
[karma]

neuter - 自由意志を使って選んで行う行為


マハーバーラタ戦争が始まろうとする中で、
アルジュナに教えるクリシュナ

正しく理解されていないもの、それがカルマ


日本でも使われている「カルマ」という言葉は、

正しく理解されないままに使われているサンスクリット語の

代表例のひとつでしょう。

バガヴァッド・ギーターの中でも、クリシュナが言っています。

किं कर्म किमकर्मेति कवयोऽप्यत्र मोहिताः ।
[kiṃ karma kimakarmeti kavayo'pyatra mohitāḥ]

「何がカルマで、何がアカルマ(カルマの反対)なのか、

賢者とみなされるような人達まで、この点において混乱している。」


ましてや、文献の正しい解釈に触れる機会を持たずして、

分かったつもりで会話の中で多用するのは避けたほうが良いですね。


クリシュナは続けます。

तत्ते कर्म प्रवक्ष्यामि यज्ज्ञात्वा मोक्ष्यसेऽशुभात् ॥ 4-16 ॥
[tatte karma pravakṣyāmi yajjñātvā mokṣyase'śubhāt]

「それを知ることによって、サムサーラから自由になる、

そのカルマについて、あなた(アルジュナ)に教えましょう。」


カルマとは何かを「知ることにより」と言われています。

頼まれたら教えます。
頼まれてもいないのに教えても、
解らないどころか、誰も聞いてくれません。このような教えは。


次のシュローカは、

कर्मणो ह्यपि बोद्धव्यं बोद्धव्यं च विकर्मणः ।
अकर्मणश्च बोद्धव्यं गहना कर्मणो गतिः ॥ 4-17 ॥
[karmaṇo hyapi boddhavyaṃ boddhavyaṃ ca vikarmaṇaḥ |
akarmaṇaśca boddhavyaṃ gahanā karmaṇo gatiḥ ||]

「文献で教えられているカルマが何か、正しく知られるべきです。

何をすべきでないか(ヴィカルマ)も、正しく知られるべきです。

何もしていない(アカルマ)とは何かも、正しく知られるべきです。

これらカルマの理解は難しいものです。」


そして、次のシュローカで、クリシュナは、

サムサーラから解放してくれる、カルマの知識を教えてくれるのです。

しかも、たった半分のシュローカの中で。


その前に、カルマの語源と定義を見てみましょう。

カルマの語源


「クル(कृ [kṛ])」という動詞の原型から派生した言葉です。

「する、つくる」という意味で、英語の「do」に相当する、

言語の基本になる、重要な動詞の原型です。

そこに、「マン (मन् [man])」という接尾語をつけて、

「カルマン(कर्मन् [karman])」という名詞の原型が出来上がります。

詳しい文法は、下に別記しました。


カルマの定義


さまざまな学派によって、さまざまな定義がされているのが、

「カルマ」という言葉です。

ゆえに、クリシュナも「賢者と呼ばれるような人でも混乱している」と言っているのです。


では、さまざまな定義をひとつひとつ検証しましょう。


1.動くことがカルマ(चलनात्मकं कर्म)

これだと、流れている川、風に揺れる木も、

カルマをしていることになります。

でもそれは違います。



2.見えない結果を生む行動がカルマ(अदृष्टफलकं कर्म)

見えない結果とは、日本語の「徳」のようなもののように、

親切にしたり、祈りの儀式をしたり、または非道徳な行為をした場合、

その行為の直後には見えないけど、後になって回りまわって自分に帰ってくると信じられる、

そんな結果をサンスクリット語で「アドリシュタ」と呼び、

それを直訳すると、「見えない結果」となる訳です。

「アドリシュタ」には「プンニャ」と「パーパ」があり、それぞれ、

「善い行いの結果」と「善くない行いの結果」という意味です。

もうちょっと広げると、

「自分の義務、つまり宇宙の秩序に沿った行為をすることによって生まれる、

後に快適な経験をもたらしてくれるもの」がプンニャで、

その反対がパーパです。

ちなみにプンニャは、ヴェーダーンタやサンスクリットへの興味、

そしてそれらを勉強出来る環境(先生、先生へのアクセス、心の平和など)も、

作り出してくれます。


この定義も完全とはいえません。

全ての行為が必ず「アドリシュタ」を生むとは限らないからです。


3.文法上のカルマ(कर्तरीप्सिततमं कर्म)

行為の主体の対象、という意味です。

これは、文法の話をしている時だけに使われるべき言葉です。


4.自由意志を使ってする行為がカルマ(कर्तृतन्त्रं कर्म / पुरुषतन्त्रं कर्म)

私達は、この身体を使って、ありとあらゆる種類の行為をすることが出来ます。

この時この場所で、この行為を、するか、しないか、するとしたらどのようにするか、

という選択権は私達にあります。

その選択権を「自由意志」と呼びます。

行為の選択権である「自由意志」を持たされている生命体を「人間」と定義します。

行為の選択基準は「宇宙の秩序との調和」です。

宇宙との調和を基準にして、この時この場所で、自分の行為を選ぶとき、

そこには、選択肢は殆どありません。

宇宙の動きが、「自分のすべきこと」として、目の前に表れているのです。

自分の行為を通して、宇宙の動きの中に、調和という形で参加する。

そのとき、その人のこころに精神的な成長が生まれ、平和が生まれるのです。

こうして、自由意志を使って選択した行為(カルマ)と通して、

精神的な成長と平和を得ること(ヨーガ)を、カルマ・ヨーガというのです。


アヒムサー


「宇宙の秩序との調和」として、一番大切な基準は「アヒムサー」です。

「私は痛めつけられたくない。」

という知識は全ての生命体が持っています。

「私と同じように、他の生き物も、痛めつけられたくない」

という知識を持っているのが、人間です。

ゆえに、

「あらゆる生命体に対して、自分が与える痛みを最小限にして生きたい。」

と願うのは、人間が、もっとも人間らしくある姿なのです。


よくある質問:


Q1:自由意志なんて、全ての人間が持っているものなのか?

A1:はい。自由意志を持たされているのが人間です。

ヴェーダによる人間の定義は「自由意志を持っている生命体」です。

地球にいようと、どの惑星にいようと、

自由意志を持っていれば、人間とみなされます。


Q2:全ては運命に操られているのだから、自由意志ではどうにもならないのでは?

A2:運命とは、その人がしてきた行為、つまりカルマの現われです。

カルマとは、自由意志を使用・誤用・悪用して、行われた行為です。

その結果が運命なので、運命を認める事自体が、

カルマ、つまり自由意志を認めていることなのです。




あなたの自由意志は、自由に使いこなされているか?


自由意志とは、自由にうまく使いこなす為に与えられているものです。

実際には、使いこなせていない場合が殆どなのです。

殆どの人が多くの場合、

1.自由意志を使っていない、もしくは

2.自由意志を誤用、悪用しているのです。

なぜそうなるかというと、

1.何も考えずに機械的に行動をしている

2.こうじゃなきゃやだ!という執着に背中を押されて判断が鈍っている

という理由が考えられます。

自分のこころの成長と平和を願う人は、この辺りを気をつければ良いわけです。


「好きなこと」と「すべきこと」


経済至上主義の社会では、「自分の好きなことをやる!」ことが、

いかにも自由であるように教えられていますが、

人間の特権である自由意志が、好き嫌いにハイジャックされている状態を、

本当の意味で自由と呼ぶことは出来ません。

「好きなこと」と「すべきこと」が同じとは限りません。

好きか嫌いかは別として、「すべきこと」が出来る人を、

「客観的」「ヨーギー」「大人」「精神的に成長した人」と呼ぶのです。



カルマ、ヴィカルマ、アカルマ


先ほど上で見た、ギーターのシュローカをもう一度見てみましょう。

कर्मणो ह्यपि बोद्धव्यं बोद्धव्यं च विकर्मणः ।
अकर्मणश्च बोद्धव्यं गहना कर्मणो गतिः ॥ 4-17 ॥
[karmaṇo hyapi boddhavyaṃ boddhavyaṃ ca vikarmaṇaḥ |
akarmaṇaśca boddhavyaṃ gahanā karmaṇo gatiḥ ||]

1.文献で教えられているカルマが何か、正しく知られるべきです。

2.何をすべきでないか(ヴィカルマ)も、正しく知られるべきです。

3.何もしていない(アカルマ)とは何かも、正しく知られるべきです。

これらカルマの理解は難しいものです。」


1.カルマの理解は、ここで試みましたね。

2.ヴィカルマとは、今ここでするべきではない行為です。

つまり、自由意志の不使用、誤用、悪用、乱用によって選択された行為です。

宇宙の秩序の調和に欠けた行為であるゆえに、

その人のこころには、不調和、未熟・幼稚さ、不平和、不満、などがついて回ります。

3.調和のある行為の結果はプンニャだし、不調和の結果はパーパ、

自分はプンニャもパーパも要らないから、息を潜めて、ただただ座って、何もしません!

というのが「アカルマ」です。

しかし、息を潜めているのも、自分で選んでしている行為、つまりカルマです。

座っているのもカルマです。生きているうちは、カルマをしない!なんてのは無理です。

馬鹿ばかしく聞こえるかも知れませんが、ヴェーダーンタを勉強していながら、

このような「僕はヨーギーだから何もしない!」という落とし穴にはまっている人を

私は何人も見てきています。

だから、クリシュナもわざわざギーターの中で言ってくれているのでしょうね。


サムサーラから自由になる、カルマの知識とは?


तत्ते कर्म प्रवक्ष्यामि यज्ज्ञात्वा मोक्ष्यसेऽशुभात् ॥ 4-16 ॥
[tatte karma pravakṣyāmi yajjñātvā mokṣyase'śubhāt]

「それを知ることによって、サムサーラから自由になる、

そのカルマについて、教えましょう。」

と、16節でクリシュナが約束した、カルマについて知る時が来ました。

それを教えるのが次のシュローカです。

कर्मण्यकर्म यः पश्येद् अकर्मणि च कर्म यः ।
[karmaṇyakarma yaḥ paśyed akarmaṇi ca karma yaḥ |]

「カルマの中に、アカルマを見ている者。

アカルマの中にカルマを見ている者。」

教えはこれだけです。

後は、教えを理解している人について。

स बुद्धिमान् मनुष्येषु स युक्तः कृत्स्नकर्मकृत् ॥ 4-18 ॥
[sa buddhimān manuṣyeṣu sa yuktaḥ kṛtsnakarmakṛt || 4-18 || ]

「その人は、人間に与えられた知能を、使われるべき用途で使った人。

その人の考え、言葉、行動には矛盾が無く、

その人は、人間として生まれてするべきカルマを全てした人である。」

人間としてするべき全てのカルマとは、

「カルマでは人間の幸福は満たされない」という見切りが付けられて、

ヴェーダーンタに出会うまでのプンニャを稼げたら、

ほとんど仕事は終わりです。

あとは、カルマ・ヨーガでこころを成長させながら、

日々クリアーになるヴェーダーンタの教えに触れ続ける生活があるのみです。


カルマの中にアカルマを見る


「料理をする」というカルマ(行為)をとってみます。

そこには、台所に立つ、米を研ぐ、水を流す、、、という行為の連続があります。

それらのどれひとつをとっても「料理をする」ではありません。

「料理をする」という実体は無いのです。

「米を研ぐ」という行為にも、米を釜に入れる、水道の蛇口を開ける、米をかき回す、、、

という行為の連続があり、どれひとつをとっても、それは「米を研ぐ」ではありません。

つまり「行為」に実体は無いのです。

お米をとっても、そこにはデンプンと水分があるだけ、デンプンには炭素と窒素などの原子が、

水の分子には、水素と酸素の原子が、、、と素粒子まで行っても、

やっぱり最終的に「これだ!」という実体はないのです。

じゃあ、何も無いのか?

実体はないけれども、ほかほかの美味しいご飯は食べられます。

いや、ご飯なんて無い!世の中はすべて「無」だ!

というなら、ご飯抜きね。ほかほかご飯も、食べる人も、無いんでしょ?


じゃあ、実体は何なのか?

この実体と、実体は無いけれども、「ある」世の中の現象全てについて、

追究するのがヴェーダーンタなのです。

これは、人生の意味を満たしてくれる、真剣な勉強です。

ヴェーダーンタは必ず、ヴェーダーンタの知識の伝承の伝統のなかで学んだ先生から、

直に教えてもらわなければ、その意味は成せません。

ギーターチャーリヤ(ギーターの先生)
バガヴァーン・クリシュナ

じゃあ、カルマは無いのか?


カルマの役割は、正しく理解される必要があります。

ヴェーダーンタの知識を理解出来るこころは、

カルマを通してのみ、つまり義務を果たす生活を通してのみ、培われます。


また、モークシャとか、解脱とか、ニルヴァーナとか、ニッバナとか、

「何からの解放・自由なのか?」というと、「カルマ」からです。

つまり、カルマを認めないと、そこからの自由も無いのです。

ゆえに、カルマが何かを分からないと、そこからの自由も何も語れないのです。


何を求めているのか、何が気に食わないのか、何がどうなればいいのか、

全てをきっちり考え抜かないのは、

「メルセデスを欲する代わりに、解脱を欲している」のレベルです。

考え抜くガイドをしてくれ、その答を教えてくれるのが文献とそれを教える伝統なのです。


クリシュナの言うとおり、カルマについては混乱だらけです。

カルマの役割を正しく知ってこそ、さらなるカルマの意味が分かるのです。

今回見た一連のギーター・シュローカの一語一語は、

その意味と意味の開き方の伝統を知る先生から、正しく教えてもらって下さい。

皆さんが正しい先生とめぐり逢える事をお祈りしています。




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こちらも: 行動の選択と葛藤について、ギータークラスの質問への答え



63.サムサーラ(संसारः [saṃsāraḥ])

ヒンドゥーでは、天使や悪魔のささやきといった、人格を分裂させ、自己否定・自己糾弾させるような教えはありません。


>> 次回 65.ダルマ(धर्मः [dharmaḥ]) >>

カルマと言えば、ダルマを知らなければなりません。







カルマの語源(文法編)


「クル(कृ [kṛ])」に「マン(मनिँन् [manim̐n])」という接尾語を付けます。

この接尾語を付加することによって、

「される対象、もしくはすることによって得られる対象」

という意味の名詞の原型が出来るのです。

さらに、この接尾語は、「クル(कृ [kṛ])」にグナの変化を起こします。

  k ṛ + man

= k a + man

「ṛ」のグナは「a」です。

「ṛ」の音が「a, i, u」のいづれかに変化した際、その後ろに「r」が付加されます。

ゆえに、

= k a r + man

となり、「カルマン(कर्मन् [karman])」という名詞の原型が出来上がるのです。

ちなみに、「カルマ」という形は、名詞の活用変化をした後の形です。

2015年7月1日水曜日

63.サムサーラ(संसारः [saṃsāraḥ])- 別の自分になろうとすること

संसारः
[saṃsāraḥ]

masculine - 別の自分になろうとすること




昔(って今でもありますが)、ゲランの香水の名前になっていましたね。

どういう成り行きで、このネーミングになったのでしょうね。


サムサーラとは


今の自分に満足が行かず、次から次へと、別の自分になろうとすること、

またはその理由。つまり、「別の自分になる!」と言わせている、このセットアップ。

サムサーラとは、この世界のことだと思われがちですが、

この世界自体は、サムサーラとは呼べません。

サムサーラとは、

自分と世界に関しての根本的な無知がある人から見た、自分と世界のことです。



サムサーラの語源


सम्यक् सरति अस्माद् इति संसारः
[samyak sarati asmād iti saṃsāraḥ]

サムミャク サラティ アスマード イティ サムサーラハ
まさに   行く  それにより それが サムサーラ


サムサーラの「サム(सम् [sam])」は「サムミャク(सम्यक् [samyak])」を表しています。

「サムミャク」とは、「まさに、実に、その通りに、とても良く」という意味です。


サムサーラの「サーラ」は、「スリ(सृ [sṛ])」という動詞の原型から派生しています。

「スリ」とは、「行く、進む、何か別のところに辿り着く」という意味です。

その動詞の原型の後ろに、「そのアクションの原因」もしくは「そのアクションそのもの」

を表す接尾語「ア」を付加して、「サムサーラ」という言葉を作るのです。

つまり、サムサーラとは、人々が前世から今世へと、そして今世から来世へと、

自分の願望や、願望を成し遂げる為にした善悪の行いの結果を経験するために、

適した身体と世界を、次から次へと移り行き続けること、

またはその原因=無知からの欲望を指す言葉なのです。

サム(सम् [sam])」+「スリ(सृ [sṛ])」+「(अ [a])」
  まさに         行く      それにより


世界の秩序に沿った健全な欲望は、バガヴァーンの現われ


社会生活や、家族生活のことをサムサーラと呼ぶ人は多いですが、

それは間違っています。

サムサーラとは、今の自分とは違う自分になろうとしていることを指すのです。

「ライフ オブ ビカミング(life of becoming)」です。

来年にはメルセデスのオーナーになろうとして頑張ります。

なぜなら、メルセデスを持っていない自分に、自分自身が耐えられないからです。

素敵な配偶者を持っている自分になりたい。

素敵な配偶者を持っていないような自分は駄目だと自分が判断してるから。

こんな子供を持っている自分になりたい。こんな家を持っている自分になりたい。

こんな給料をもらって、こんな役職についている自分になりたい。。。

この世界は、人類がこのような夢や希望を持って生きるように作られているので、

それ自体が問題ではありません。

ただ、「まだ目標達成出来ていない自分のことが、自分にとって心地よくないから」

と思ってしまう心のトリックに気付いていれば、バランスを崩すことは無いでしょう。


人間というものは、社会生活や家族生活を通してのみ、精神的に成長出来るので、

健全な夢や希望は、精神的成長の動力です。

バガヴァッド・ギーターでも

「私(バガヴァーン)は、世界と調和している欲望(カーマ)として、

人類の心の中に現われる(7章11節)」と教えられています。

自分の中に、「幸せな家族を持ちたい」や、

「適職に就いて、達成感を得ながら社会に貢献したい」という願望が

現われるのは、バガヴァーンの現われなのです。

そのような願望はどんどん行動に移せば良いのです。

周りにとって良いことは、結果的に自分の成長にとって一番良いことだからです。



「悪魔のささやき」など無い


では反対に、世の中の秩序に背き、不調和を起こすような願望が、

自分の中に現われた場合はどうなのでしょうか?

それって、悪魔の仕業?

いいえ。「悪魔のささやき」のような、人格を分割させるような教えは、

ヒンドゥーにはありません。

前世も含めて、今までに見聞きした膨大な情報は、

自分の心に印象(ワーサナ、サムスカーラ)を与え、

それが自分の考えに影響を与えるのです。

考えというものは、心の中で生まれては消えて行くものです。

自分でも予想のつかない、様々な考えが、次から次へと自動的に生成され、

そして消えて行きます。

そんなことは、ヴィパーサナ瞑想などに10日間を費やさなくても、

分別があれば誰でも分かることです。

よっぽど「スピリチュアル」な情報に惑わされていない限り、ですが。


ゆえに、世界と調和しないような考えが、心の中に現われても、

自分の事を責めたり、その考えにとらわれたりせず、ましてや行動に移したりせず、

「過去の印象から自動生成されたものだから」と、そのまま受け流せば良いだけなのです。

「天使&悪魔のささやき」といった考えは、
葛藤や人格分裂をおこすだけ。
心についてもっと知り、客観的になり、
自分の心から距離を置く必要があります。


サムサーラの範囲


今の自分に満足いかず、次から次へと別の自分になろうとするのが

「サムサーラ」です。

別の自分がいるのは、今ここでは無い、「いつかどこかの時間と場所」です。

「いつかどこかの時間と場所」には、天国も含まれています。

現代で勢力を持っている宗教というものは、

この「天国行き」を最終ゴールとした宗教です。

「この世界にある全ての動植物は人間の消費の為にある」と教え、

「天国に行く為なら、人を傷つけることもいとわない」という、

とても危険な考えを教えています。

それらの宗教を信じている「人」が悪いのではなく、

それらの宗教の「教え、教義」が間違っているのです。

間違った考えを持っている人達は、広い心で受け入れられる必要がありますが、

間違った考えを、正しい考えとして受け入れるのは、そう、間違いです。


対話による、間違った教義のアップデートの必要性


この勢力宗教の「間違った教義」は、現代に生きる人類が、

皆で考え、対話を通してアップデートをしていく必要のある課題です。


ヴェーダの教える天国は「サムサーラの範囲内」


ヴェーダは天国や、天国への行き方を教えている部分もありますが、

「どうせ行っても、時間が来たらまた別の世界に降りて来ないといけない世界」

として教えています。

「1年間一生懸命働いて稼いだお金と有給で手に入れた、

二週間のハワイ旅行も、二週間経てば、また同じ労働生活に戻らなければならない」

というロジックと全く同じ。


天国に行っても、完全な幸せと平安を得ることは出来ない。

「天国もサムサーラの範囲内」ということを分かってもらうために、

ヴェーダは天国について教えているのです。

行ってもまた帰ってきますよ。
天国であれ、地獄であれ、今ここでは無い場所も時間も全てはサムサーラ。
永遠ではありません。

「永遠の天国」など無い


クリスチャンやムスリムが信じる聖書では、天国も地獄も「永遠」とされていますが、

ヴェーダでは、天国も地獄も永遠の場所ではありません。

「永遠の天国」「永遠の地獄」は理論的に間違っています。


多くの宗教では、天国も地獄も「永遠」とされていますが、

今ここでは無い、死んでから行く場所を永遠とするのは、

理論的に間違っています。

なぜなら、今、ここに無い世界が、永遠であるわけが無いからです。

天国は快楽を経験する場所、地獄は苦痛を経験するための場所なら、

それは永遠ではありえません。経験とは時間と場所の軸内にあるからです。

時間の軸内にあるものを永遠とは呼べません。

永遠ということは、時間的に制限が無いということです。

それならば、今ここにいる私が、永遠であるべきです。


改宗して、他の人を弾圧して、そして死んでから、

神様に気に入ってもらえれば行けるような場所は、永遠とは呼べません。

理論で到達出来ない事実はあったとしても、

理論的に間違っていることを、ヴェーダは教えません。

結局は理解ベースの教えだからです。


ヴェーダは信仰ベースの宗教では無い所以


理論的に間違っていることを、思考停止して飲み込ませるのが「信仰宗教」です。

ゆえに、聖書は思考停止して飲み込むだけの「信仰ベースの宗教」です。


一方、ヴェーダは明瞭な思考を要する「理解」ベースの「教え」です。

なぜなら、間違いを認識できる明瞭な心によってのみ理解される

真実を教えるのがヴェーダだからです。

アヒムサーを尊重し、心の平和を明瞭さを育て、

私達の持っている、世界や自分や幸せについての結論の中に、

理論的間違いを指摘し、それを理解してもらう、一連の教えがヴェーダなのです。


誤解を避けるために繰り返しますが、

「間違った考えを、真実として受け入れない」ことは大事であり、同時に、

「間違った考えを飲み込んでいる信仰深い人々を、

そういう人々として愛情を持って受け入れる」という許容力も大事である、

というのが、ヴェーダの文化のあり方です。



サムサーラからどうやって抜け出す?


いわゆる「インド哲学」や「スピリチュアル」に感化された人の中には、

「私はサムサーラから抜け出したい」と受け売りの発言をする人もいます。

なぜ受け売りなのかと言うと、

「今の自分よりも、もっといい条件にいる自分になりたくない」

という人はいないからです。

じゃあ、何から抜け出そうとしているのかというと、

「別の自分になり続けるために、走り回っているのに疲れた。

天国にまで行っても、それが永遠では無いのなら、

出口も解決方法も無い。本当に走り回り続けなければ、私は幸せでいられないのか?」

と考え始めた人を、ヴェーダでは「ムムクシュ」と呼びます。

直訳すると「解放を願う人」、つまり「頑張り続けないと幸せにはなれない、

幸せになったつもりでも、遅かれ早かれ、やっぱり頑張っている自分がいる。

いつまで経っても自分は自分自身に満足出来ていない。

という根本的な問題からの解決を探し始めた人」という意味です。


ヴェーダの答え


そんな、根本的な問題に気付くことが出来て、根本的な解決を探すことを始めた、

とても頭脳明瞭で、精神的な成長を遂げた「ムムクシュ」に対して、

最終的な答を教える為に、ヴェーダはあるのです。

ヴェーダは「ここにある全てはひとつの存在であり、それはあなたです。」と教えます。

あなたの欲しいものは全てあなたの中にあり、

あなたの求めている、幸せの意味はあなた自身であり、

永遠とは今ここにいるあなたのことであるがゆえに、

あなたの探している、永遠の幸福、永遠の平和とは、つまり、

今ここにいるあなたに他ならない。

と教えています。

もしそうなら、サムサーラなど、今までにもこれからも、一度も無かったのです。


これは、「ビューティフル!」と詩的に鑑賞するための文学などではなく、

分析し、理論と突合せ、100%理解する為の文章です。

このようなウパニシャッドの言葉を、美文体に訳して、

なんとなくいい気分になって味わうのでは無く、

「100%明瞭に理解したい」と願う人を、「ジッニャース」と呼びます。

直訳すると、「知りたいと願う人」です。

この「ムムクシュ」から「ジッニャース」へのジャンプには、明瞭な思考が必要です。

明瞭な思考には、平和な心が必要です。

平和な心を得るには、世界と調和のとれた生活が必要です。





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その意味が正しく理解されずに使われている言葉の代表、
カルマについて、詳しく説明します。