2015年6月5日金曜日

59.アムリタ(अमृतम् [amṛtam])- 不死、時間の範囲でないもの、それによって死が無くなるもの

अमृतम्
[amṛtam]


neuter - 不死、時間の範囲でないもの、それによって死が無くなるもの




不老不死の秘薬?


古今東西の物語の中で「アムリタ」とは、

「不老不死の秘薬」という、この世のものではないような飲み物のことを指します。

王様や富豪が世界中の辺境な地に遣いをやったり、

時には自ら危険をおかしてまでも、この不老不死の秘薬を手に入れようとします。

どんなにお金や権力を持ってしても、やっぱり老いや死を恐れる、

か弱い生き物なのだな、人間と言うものは。と幼心に思ったものです。


しかし、不老不死の秘薬なんて、誰も見たことも無いものなのに、

そんなもの、どこから聞きつけてきたのか?と思っていましたが、

ヴェーダをはじめとする文献には「アムリタ」という表現がよく出てきます。

ヴェーダの教える「アムリタ」とは、一体何なのでしょうか。


アーユルヴェーダの神様、ヴィシュヌの姿のひとつ、
ダンヴァンタリーが手にしている壷の中身は?

アムリタの語源


アムリタという言葉は、以下のように定義されています。

नास्ति मृतं मरणं यस्मात् तद् अमृतम् ।

「それ(アムリタ)によって、死(ムリタ、マラナ)がなくなるもの。

それが、アムリタ。」

それってやっぱり、不老不死の秘薬みたいですね。

この世にあるものは全て例外なく、時間の中で滅び行く運命にあるのに、

どうやって死がなくなるのでしょうか。


「ムリ(मृ [mṛ])」とはサンスクリット語で「死ぬ」という動詞の原型です。

この「ṛ」の巻き舌の音は、日本語に無い音なので、

「ムリ」とも「ムル」とも言えない音ですが、とりあえず「ムリ」とカタカナ表記しています。


この動詞の原型に、「~すること」という意味の「タ(त [ta])」という接尾語を付けると、

「ムリ(मृ [mṛ])死ぬ」+「タ(त [ta])~すること」
=「ムリタ(मृत [mṛta])死ぬこと、死」

になります。


否定の意味の「ア(अ [a])」と、「ムリタ(मृत [mṛta])死」をくっつけて、

「アムリタ(अमृत [amṛta])」となります。


文法の話: バフヴリーヒ・サマーサ


このタイプの複合語(サマーサ)は、「バフヴリーヒ」というタイプのサマーサで、

複合された言葉以外の意味を指す言葉です。

つまり、「それにより、死(ムリタ無くなる(」という場合、

複合語は「ムリタ」ですが、

その言葉の意味は、「それ」、つまり不老不死の薬などを指しているのです。


その人の、心や考え(アートマー)は寛大(マハー)である」の場合、

複合語は「マハーアートマー」で、

その言葉の意味は「その人」つまりガンジー師や、サドゥーを指します。

サンスクリット語は深い!

その中身は?

死にたくない、幸せになりたい、と願うことは、尊敬されるべき願い



「アムリタ」を求めているのは、何も王様や富豪だけではありません。

全ての人が欲しいものの象徴として、「アムリタ」があります。

それは何故かと言うと、私たちは皆例外なく、死ぬのは嫌だからです。

死にたくないと思うことは、恥ずかしいことでも何でもありません。

それがバガヴァーンのアレンジメントなのです。

ヴェーダーンタを学んで理解しなかった自称グルが、

「生への執着を捨てろ」などと教えるのは、危険極まりないことです。

人間だけでなく、全ての生きているものが、

死ぬことを嫌がること、傷ついたり痛みを感じることを嫌がることは、

バガヴァーンの在り方であるゆえに、尊敬されるべきことです。

自ら命を絶とうとする人もいますが、その人も「これ以上の痛みを感じたくない」

という思いから行動しているのです。例外なく誰だって、幸せになりたいのです。

幸せになりたいと願うのは、生きるものとして当たり前のことであり、

それを追求する為に、人生の時間が与えられているのであり、

それもバガヴァーンの創造のあり方なので、

自分の願いも、他者の願いも、後ろめたさを感じることなく、

尊重されるべきことなのです。


コンパッション - 成長した人間の在り方


「死にたくない」というのは、全ての生き物に共通であることから、

ユニヴァーサルな価値感、つまり宇宙に普遍する共通の法則のあり方です。

私達生きるもの全ては、自分が「死にたくない」というのをよーく知っています。

自分自身のことですからね。

では、自分と同じように、他の生き物も「死にたくない」と思っている事を、

一番よーく知っているのは誰でしょう?

それは人間です。

このことをよーく知っているがゆえに、人間なのです。

「このこと」とは「共感、コンパッション、思いやり、良心」といった、

人間の、一番人間らしい感情のことです。


しかし、人間は、宗教の名の下に、「お国を守る」為に、

そして怒りや恐怖、不安から、

そして「地球上の動植物は全て、人間の消費の為にあるのだよ」といった

宗教的、あるいは経済至上的な価値感教育による洗脳、

そんな理由から、他の生き物を毎日殺しています。

自分が生きていく為に避けられなかった、最小限の殺生よりも、

はるかに多くの命を、上に挙げたような都合で殺生しているのです。


私利私欲の為に、大多数の人々に対して、

人間はもちろん動植物を殺すことを推奨することは、

その人々の人間性を否定していることに他なりません。


宗教、政治、経済などの大きな波に飲まれて、

大多数の人間達は、人間である証、「コンパッション」を放棄させられているのです。


神々が集まって、ミルキー・オーシャンを攪拌して、
アムリタを取り出そうとしている図
プラーナに出てくる有名なお話。

時間軸の中にあるのは全て、死に行く運命にある



生きているものが全て「死にたくない」「傷つきたくない」と願う一方で、

この世にあるものは全て、そして、ヴェーダによれば、あの世にあるもの全ても、

例外なく、いつか死ぬ運命にあります。

この宇宙自体、全体そのものが、

時間の範囲内で生まれ、時間の範囲内で一瞬も止まらずに変化し続けています。

それゆえに、この宇宙にあるもの全てにおいても同じことが言えます。

この机は動いてないよ~って言っても、ミクロレベルでは素粒子はぐるぐると動き続けています。

マクロレベルでも、太陽の視点から見ると、

この机はものすごいスピードで、ぶんぶん回っています。

太陽は動いてないって?銀河の視点から見たら、太陽もぶんぶん回っています。

私の体の細胞も、私の考えも、ぶんぶん、ぐるぐる、、、変化し続けています。

そして、時間軸の中にあるものは全て、変化を遂げて、

最終的には、その名前で呼ばれることに相応しくない形へと変化します。

形を変えているだけで、新しい名前と形の登場とも言えますが、

死ぬ、という呼び方で認識されます。

ここにポジティヴ・シンキングもネガティブ・シンキングも要りません。

この世のあり方の現実として、死があり、それは、

人間でも、動物でも、植物でも、どんな生き物でも、忌み嫌うものです。

なぜかと言うと、そういう風に出来ているからです。

それがバガヴァーンの創造のあり方です。

それは尊敬と畏怖をもって受け入れられるべきことです。

誰だって死ぬのは嫌なのです。


しかし、生きている以上、死というイベントは避けられません。

なぜなら、私達の体は時間軸の中に存在しているからです。

どんなに健康でラッキーでも、意外と短い時間内に、必ず、

身体の機能はストップしてしまいます。

時間軸のなかで生まれてきたものは必ず、時間に縛られています。

つまり、時間軸内で形を変え、時間軸の中で姿を消していくのです。

自分の目に入るもの、考えられるもの全てにおいて、

時間に縛られて消えていくことを認識する必要があります。


絞りたてのアムリタですよ~
と偽って、偽物のアムリタを分配しようとしている、
モーヒニーに化けているヴィシュヌ

「不死」なんて絶対無理?


そうだとしたら、「不死」なんて、絶対無理ですね。

「アムリタ」が何であれ、それによって私から死を無くすなんて、

あり得ないことです。

時間はサンスクリット語で「カーラ(कालः [kālaḥ])」と言いますが、

時間という言葉そのものが、死を表しているのです。


ヴェーダーンタが教える、あなたの本質


しかし、ヴェーダは教えます。

「あなたは死(時間)から自由な存在である」と。

どういうことでしょうか?

私は生まれてからずっと、時間の中にあるものを対象化し続けています。

小さいときの自分の身体と心のあり方は、今ではもうほとんど原型を留めていません。

でも、自分の変わり続ける身体と心を、脳みそのどこかで静かに眺め続けている私がいます。


4D?5D?19D?


1枚の紙の上に描かれる絵は、2Dです。つまり縦軸と横軸の中の世界です。

それを鑑賞するには、もうひとつのディメンション、つまり奥行きという軸を足した、

3Dの視点から眺めなければなりません。

私達が眺めている世界は、3Dです。時間軸を足したら4Dですかね。

あの世も足したければ、もうひとつ足してもいいですよ。

ちなみにヴェーダでは世界は大きく分けて3つ、さらに分けたら14あります。

「じゃあ、私のいる世界は、5D?いや、10D?いやいや、19D??」

というのが凡人の考えです。

どういう点が凡人なのかと言うと、

同じディメンションという枠の中で数を増やしているだけ、という点です。

さらに、「そこに行って見たい!」と言い出すのは凡人の極みです。

どこに行こうが行くまいが、行き先の話をしているのではなく、

行っている自分の話をしているのです。

時間的にも空間的にも離れていない、

今、ここに存在している、自分の話をしてるのです。

ディメンションの数がいくつであれ、移り変わり行くそれらを対象化している、

変らない、意識的な存在である、いまここにいる自分は、

それらの対象物とは、まさに次元が違うのです。


対象化されているものは、時間枠の中にあるので、「ムリタ(मृतम् [mṛtam]」。

つまり死に行くもの。

それを対象化しているのは、時間枠の中にいない、

「今」という現実である私。

時間に制限されていない、死から自由な存在、それが私の本質なのです。


アンコール・ワットにも、同じモチーフの壮大な彫刻があります。
バンコクのスワルナ・ブーミ(サンスクリット語で「黄金の地」)国際空港にも、
アムリタのお話のディスプレイがあります。


アムリタの意味



もし、私が時間軸の中に存在していない、不死の存在であるとしたら、

今、ここで既に、私は不死の存在であるべきです。

「今」の意味は、時間の中には無いのです。

「今」の意味は、いま、ここ、の意識的な存在、つまり自分なのです。

しかし私はそんなことも知らずに、死と老いを恐れて毎日生きています。

そうです、「知らずに」いることが、私を「死にゆく者」にしているのです。

では、私を死から、時間の制限から解放してくれるもの、

つまり、「アムリタ(अमृतम् [amṛtam]」=「それにより死が無くなるもの」とは、、、

「あなたは時間軸の中に存在していないのですよ。

意識的存在である、あなたが時間に存在を与えているのですよ」

と教えてくれる、ヴェーダの知識が「アムリタ(अमृतम् [amṛtam]」なのです。

それをきちんと理解出来たときにのみに言えることですが。



<< 目次へ戻る <<



58.シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ])


質問:ヴェーダーンタは哲学ではないとは?








>> 次回 60.グル(गुरुः [guruḥ])>>

(自分の本質の正しい知識を教えてくれる)先生、木星