2014年4月13日日曜日

24.カーラ(कालः [kālaḥ])- 時間

कालः 
[kālaḥ] 


masculine - 時間




「時間」のもっと深い意味


「時間」と日本語で言うと、とても一般的で実際的な響きがあります。

「忙しくて時間が無い」「明日はお時間ありますか?」「仕事の時間」「私の時間」、、

ヴェーダーンタの文献の中で見られるサンスクリット後の「カーラ(कालः [kālaḥ] )」は、

もっと深い意味で使われています。
アシュワッタ(インドの菩提樹、ピッパラ・ツリー)の葉っぱは、
本に挟んで置くと、時間がたては葉脈だけが綺麗に残ります。

死神の別名、「時間」


時間(カーラ)とは、私達の若さ、能力、寿命を燃やし尽きる火のようです。

寿命を終えるべき時が来た時、

「時間切れですよ」

と肩を叩きに来る者がいます。

それが、「ヤマ(यमः [yamaḥ])」と呼ばれる、俗に言う死神です。

「カーラ(कालः [kālaḥ] )」は、ヤマの別名でもあります。

彼は、(インド人なのに)しっかり時間を守ります。

一秒も遅れずに時間通りに来て、今の体からあなたを連れ出します。


寿命が終わるのは賞味期限切れ?


インド英語では、誰かが亡くなった時の表現は、

「He is expired.」

です。

普通、Expired と言うと、「賞味期限切れ」といった感じがします。

この状況と、言葉のギャップに、インドに来たばかりの外人は苦笑してしまいます。

しかし、この「He is expired.」は、哲学的にも、客観的にも的を得た表現です。

どんな生き物にも、生きられる年月が、運命という名の下に割り当てられています。

それが時間切れになったのだから、Expired、「期限切れ」になっただけなんですね。

期限が切れたのは物理的な身体だけ。


身体は死んでも、個人は死なない。


心や感覚といったものの集まりは「スークシュマ(微細な)・シャリーラ(身体)」と呼ばれ、

それが「個人」を個人たらしめている、

つまり他の一切のものと切り離しているかのようにしているものなのです。

そんなスークシュマ・シャリーラが、次にどの物理的な体に入るかは、

体が死んでしまう前にしっかり決まっていると言われています。

「誰が決めるのか?」というと、あなた自身の行ってきた行動が決めるのです。

一応「チットラ・グプタさん」と言う会計士が、全ての個人の行いを記録管理しているのですが、

内容を決めているのは、その個人です。

あなたが味わっている経験は、過去からの結果です。

あなたを含めた誰かしらが行った行為が、結果を生んでいるのです。


カルマの法則


原因である行為は、巡り巡って、その結果を生み出し、個人が味わうことになります。

過去に行われた個人の行動が、巡り巡ってやってくるその結果を招いているのです。

原因と結果を結ぶネットワークは、全宇宙、全時間を網羅しているので、

とても複雑です。

バガヴァッド・ギーターでも、バガヴァーンは、

「गहना कर्मणो गतिः」(カルマの法則は把握出来無い)と教えています。

中間のネットワークの構造は複雑で理解し得ないものですが、

最初の原因である行為が、廻り回って、本人のところに結果となって返って来る事は理解されるべき事です。

「なんで自分はこんな身体を持って、この両親の元に生まれて来たのだ?」

それは、もちろん原因があるからです。

過去の事象の諸々が、今ここにあるあなたの身体を作っているのです。

「身体は勝手に出来たとしても、何でわたしの体になってんの?」

その原因も過去にあります。あなたが過去に行った行為が、この身体を引き寄せたのです。

過去に行った行為の結果を味わうのに適した体が、あなたに与えられているのです。

これが、ヴェーダを基にした、世界の事象の説明です。

理論的に考えてみて、「ふーん、それはそれで筋が通ってるな」と納得出来る事はあっても、

理論を利用して、「それは絶対間違っている」と立証することは出来ません。


天国も地獄も永遠ではありません。


「永遠の天国」や「永遠の地獄」は理論的に間違っており、理論的に立証出来ます。

永遠なら、今現在も既に永遠に含まれているはずだからです。

ヴェーダの教える天国や地獄は、永遠ではありません。これはとても理論的です。

がんばって貯金したら10日間ハワイに行ける、すなわち11日目には帰って来る。

道徳に反する行為をしたら、嫌な思いをする。しかし、それもいつかは無くなる。

同じように、善い行いをして天国に行っても、悪い行いをして地獄に行っても、

また、時間が切れて、遅かれ早かれ、人間の体に戻ってきます。


どの道、「身体を得る」「経験を味わう」「体がExpireする」というのは全て、

時間(カーラ)の範囲内なのです。

時間の範囲内ということは、永遠ではないのです。常に変化し続けているのです。

永遠のように見える長い時間も、感じる人の感覚次第です。

宇宙という巨大な単位でも、素粒子というミクロの単位でも、常に変化し続けているのです。


永遠は、あなたです。


時間の範囲内で無いものなんてあるのでしょうか?

時間の範囲内で無いから、それは永遠です。

そんなものなんてあるのでしょうか?

それは、ある。とヴェーダは教えます。

どこにあるのでしょうか。

それは、あなたである。とヴェーダは教えます。

いずれ死ぬわたし、毎日老い続けているわたしこそが、時間の範囲内であり、

永遠とは程遠い存在のような気がするのですが?!

でも、考えてみてください。


流れ続ける時間を対象化している、わたしがいます。

わたし自身が流れ続けていたら、流れ続けている時間を、流れ続けている物として対象化出来ません。

過去や未来といった時間、1時間や1マイクロ秒といった時間、

それらを対象化しているのは、わたしであり、それは「今」の正体なのです。


永遠の主体である私、時間も空間も私の対象物


当たり前の話ですが、対象物と、それを対象化している主体とは、別の存在です。

時間と時間の範囲内の全ての事象は、わたしにとって対象物です。

昔の記憶も、将来の不安も、老い続け、やがて朽ち果てるこの身体も、

全てはわたしにとっての対象物です。

先述のスークシュマ・シャリーラさえも、わたしにとっては対象物です。

全ての経験、感情、考え全ての経験者を、経験者たらしめているのが、

幼少の頃からの全ての経験者を対象化している、

今、ここにいるわたしなのです。


時間と時間の範囲内の全ての事象が対象物で、

それとは別の存在が、主体のわたしです。

つまり、わたしは時間の範囲内では無く、わたしは永遠なのです。


アムリタの意味


「永遠」のことを、サンスクリット語では「アムリタ」と言います。

「アムリタ」とは「不死」とも訳されます。それは皆が捜し求めているものです。


わたしが「今」の正体であり、「永遠」であることが、真実なのにも関わらず、

わたしは自分のことを、老い続け、やがて朽ち果てる存在だと信じて、

昔の記憶や将来の不安に捕われ、苛まされ続けています。

真実とは違う事実に従って、わたしは自分自身を理解しています。

そのようなことを、「無知」から起きる「混乱」と呼びます。

それを取り払ってくれるのは、正しい、真実に基づいた自分に対する「知識」です。

正しい知識の理解が、わたしを時間(カーラ)の呪縛から解放するのです。


それゆえに、本当の自由を与えてくれるシヴァの別名が、

「カーラ・カーラ」なのです。

時間(カーラ)と呼ばれる死神の、死神(カーラ)。

つまり、時間という呪縛から解放してくれるもの=知識のことなのです。






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その名のとおり、カラスという意味のサンスクリット語です。
   


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何?という意味のサンスクリット語の代名詞・疑問詞です