2014年7月26日土曜日

30.クラ(कुलम् [kulam])- 家、家庭、家系

कुलम् 
[kulam] 


masculine - 家、家庭、家系




サンスクリット語の「クラ(कुलम् [kulam] )」は、

物理的な住居用建物の「家」では無く、

家庭、家族、家系を表す言葉です。


プージャ・スワミジのグルクラ


例えば、私が2010年から住んでいる、タミルナードゥ州にあるアシュラムの

正式な名前は「アールシャ・ヴィディヤー・グルクラム」です。

「グル(先生)」の「クラ(家)」というわけです。

インドの伝統では、ヴェーダやヴェーダに関する伝統的な学問を習う時には、

先生のところに何年か住み込んで、家族の一員となって、

先生から学ぶ、という習慣があります。




 映画「グルクラム」は、私の恩師のグルクラムのドキュメンタリーです。
私が2010年から住み込みで、学び、教え続けている場所です。
冒頭に私が入ってます!

グルクラという伝統のシステム


このシステムは、私達が当たり前だと思っている学校のシステム、つまり、

「何時から何時まで、教室に行けば先生がいて、

約束どおりの教科について、約束どおりに教えてくれる」といった感覚とは全く違います。


サーマヴェーダを教える小さなグルクラに住み込みで勉強している子供たち。
インドの伝統を守る貴重な存在です。
私はそんなブランマナ(日本語で言うバラモン)にサンスクリット語を教える、
人類史上初の日本人、外国人女性です。

先生の家に住み込むという事はつまり、

24時間いつでも先生のお世話を出来る準備が出来ていると言う事、

先生の人となりを見ながら学ぶと言う事、

というバックグラウンドがあります。



日本語の「お世話」、サンスクリット語の「セーワー」


お世話とは、サンスクリット語でも「セーワー」と言います。

日本語の「世話」は、サンスクリット語から来たのだと著者は思います。

先生(グル)へのお世話(セーワー)を「グル・セーワー」と呼びます。

知識を得る時のグル・セーワーの必要性は、ヴェーダやギーターではっきり教えられています。

तद् विद्धि प्रणिपातेन परिप्रश्नेन सेवया ।
उपदेक्ष्यन्ति ते ज्ञानं ज्ञानिनस्तत्त्वदर्शिनः ॥ ४-३४॥
tad viddhi praṇipātena paripraśnena sevayā |
upadekṣyanti te jñānaṃ jñāninastattvadarśinaḥ || 4-34||
バガヴァッドギーター4章34句

praṇipātena :先生に完全にナマスカーラをすることによって、

paripraśnena :正しい質問によって、

sevayā :グル・セーワーによって、

tad viddhi:その知識を知りなさい。


グル・セーワーとは、先生の生活の為の炊事洗濯や牛の世話などから始まって、

先生が実現すべき社会貢献事業に関わることも、グル・セーワーと呼ぶ事ができます。

先生のヴィジョンの実現に関わることによって、先生のヴィジョンが分かってくるのです。




== कुलम् [kulam] - クラ   が使われている文献 ==

チャーンドーギャ・ウパニシャッド


श्वेतकेतो वस ब्रह्मचर्यम् ।
न वै सोम्य अस्मत्कुलीनः अननूच्य ब्रह्मबन्धुरिव भवतीति ।
śvetaketo vasa brahmacaryam |
na vai somya asmatkulīnaḥ ananūcya brahmabandhuriva bhavatīti |
チャーンドーギャ・ウパニシャッド 6章1節1句より

12歳になったシュヴェータケートゥという名の男子に、父親が言います。

「グルクラに住んで、ヴェーダの勉強をしなさい。

私達の家系(クラ)に属していながら、ヴェーダの勉強をしない人にはならないで。」

インドの伝統的な家庭に生まれたら、少年期の12年間は先生のところに住み込んで

ヴェーダを暗記する義務があるのです。

この伝統は今世紀までも細々と続けられていますが、

イスラムの侵入、クリスチャンの改宗、資本主義社会の侵略、と

次から次へとヴェーダ文化の衰退にアクセルがかかっています。

時代の波に押されて、ヴェーダを勉強しても「かっこ悪い」ということで、

誰も学びたがらず、また、ヴェーダを勉強した男子は、なかなか結婚出来無い、

という現実もあります。どこの親も、IT系男子に娘をやりたいものなのです。


消え行くサーマ・ヴェーダの文化


私が住んでいるグルクラの中にも、さらに小さなグルクラがあって、

サーマヴェーダを住み込みで勉強している子供たちが8人ほどいます。

彼らが勉強している「ジャイミニ・シャーカー」に属するサーマヴェーダを教えているグルクラは、

インドに(ということは世界に)3つしかありません。

ヴェーダの文化の無いインドを、インドと呼ぶ事が出来るのでしょうか?

ドーティを巻いたり、チョティを生やしたり、花を耳に掛けたり、

そんなことをもうしないインドは、もうインドである意味は無いように思えます。

インドの若い人達に、自分たちの文化の深さや重さを知ってもらう為にも、

私はより多くの人達に、サンスクリットを教え続けます!



バガヴァッドギーター


कुलक्षये प्रणश्यन्ति कुलधर्माः सनातनाः।
धर्मे नष्टे कुलं कृत्स्नमधर्मोऽभिभवत्युत॥ १-४०॥
kulakṣaye praṇaśyanti kuladharmāḥ sanātanāḥ |
dharme naṣṭe kulaṁ kṛtsnamadharmo'bhibhavatyuta || 1-40||
バガヴァッドギーター1章40句

戦いを拒むアルジュナが、マハーバーラタ戦争が引き起こすであろう悲劇を予想して、

あれこれ愚痴っている場面から。

このシュローカ(句)の前後で、クラ(家系の伝統)を守る事の大切さが

懇々と述べられています。

殺し合いをした後には、クラ(家系)から男性が消えてしまうので、

家系が続かなくなる。そうなると、脈々と続いてきた家系の伝統が無くなってしまう。

家系の伝統が無くなるということは、社会全体の伝統も無くなってしまう。

そのような(伝統を守る男性が不在の)社会では、女性が守られず、

社会全体の秩序が乱れてしまう。そうなると社会全体が地獄行きになってしまう。。。

と、アルジュナは延々と続けます。


「男性が女性を守る」とは古臭く聞こえるかも知れません。

私もそう思っていました。

しかし最近では、それは資本主義社会の謳うプロパガンダなのだと考えるようになりました。

健康な社会とは、男性は女性を守るために機能している。

男性達が自分たちの仕事=女性に不安を与えずに、安心だけを与える事に専念して、

女性は安心して、次世代の養育に愛情を注ぐ事、つまり女性の仕事に専念出来る。

子供を産んだり、母性愛を持って育てたり出来るのは、女性だけです。

それがこの世界の在り方なので、間違っているとかどうとかは、誰とも議論は出来ません。

不公平でも何でも無いのです。

「女性が男性と肩を並べてバリバリ働く事が自由なのだ」というのは、

資本主義によって利益を得る少数の人達にとって都合の良い理屈です。

実際にそれを信じて、与えられた母性を放棄して、ボロボロに搾取されて、

それでも「私は男女平等という自由を謳歌している」と信じ込まされているのは、

犠牲者であるようにしか見えません。







<< 前回の言葉 29.クマーラ(कुमारः [kumāraḥ])<<

南インドで大人気のクマーラ君。
シヴァの息子であり、ガネーシャの弟でもあります。






   


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不動、不変という意味のサンスクリット語の言葉です。


2014年7月3日木曜日

29.クマーラ(कुमारः [kumāraḥ])- 幼年期の男子

कुमारः 
[kumāraḥ] 

masculine - 幼年期の男子



シヴァとパールヴァティーの息子


この「クマーラ」という言葉は、インド男子の名前によく使われます。

名前として使われるときは、最後の「a」が落ちて「クマール」と発音されます。

しかし、サンスクリット語では、きちんと「クマーラ」と発音されるべきです。

南インドのタミル・ナードゥ州では特に多く見られる名前です。

なぜかと言うと、シヴァ神とパールヴァティー女神の間にある、

2人の息子のうちの弟の名前が「クマール」で、

タミル・ナードゥ州では多大な信仰を集めているからです。

お兄さんは、北インド、特にマハーラーシュトラ州でで大人気の「ガネーシャ」。



弟は、南インド、特にタミル・ナードゥで人気を博している「スブラマンニャ」またの名を「カルティケーヤ」、そしてまたの名を「シャンムカ」、はたまた「スカンダ」、通称は「クマール」君です。

南インドで大人気のクマーラ君。
シヴァの息子であり、ガネーシャの弟でもあります。

なぜか北インドでは殆ど知られていません。

私もこちらコインバトールに来る前に、リシケシに4年住んでいましたが、

ガネーシャに弟がいる事自体、ぜんぜん知りませんでした。

コインバトールからリシケシに帰った時に、地元の人に

「ガネーシャには兄弟がいる」って言っても信じてもらえなかった。。

また、クマール君は、少年期から、結婚して、家族を持って、

最後にサンニャーシー(出家僧)になるまで、南インド各地を転々としていたそうです。

ゆえに、それぞれの土地で、それぞれの人生の段階のイメージで知られているので、

クマール君が、未婚の青年として知られている土地では、

「彼が結婚しているなんて!」って思われるそうです。



ガネーシャとクマール君の逸話:


シヴァとパールヴァティーは、ある日、とてもスペシャルな果物をもらったので、

自分たちの息子たちのうちの一人にそれをあげようと思った。

この世界、宇宙を、速く一周した方が、果物をもらえるという条件にした。

おなかのポッコリ出ている、正直ちょっと肥満体質のガネーシャ君の

ヴァーハナ(乗り物)は、ちっちゃいネズミちゃん。

一方、端麗なクマール君の乗り物は、すばしっこい孔雀。

クマール君は「ここは俺がもらった!」と言いながら、

さっそうと孔雀に乗って、宇宙をくるっと一周してのける。

絶対勝ち目のなさそうなガネーシャ君は、焦りもせず、

クマール君が外を走っている間に、

目の前に座っているシヴァとパールヴァティーの周りを、くるりと歩いて一周した。

「この宇宙の全ては、私のお母さんとお父さんです。」

「良く解かってるじゃないか!」と喜びながら、

シヴァとパールヴァティーは、ガネーシャ君に果物をあげましたとさ。




== कुमारः [kumāraḥ] - クマーラ   が使われている文献 ==

カタ・ウパニシャッド 


冒頭部分

ॐ उशन् ह वै वाजश्रवसः सर्ववेदसं ददौ। तस्य ह नचिकेता नाम पुत्र आस।। 1.1.1
om̐ uśan ha vai vājaśravasaḥ sarvavedasaṃ dadau| tasya ha naciketā nāma putra āsa|| 1.1.1

ヴァージャシュラヴァスという名のお金持ちの男性は、

自分の財産を全て寄付してしまう、ヴィシュヴァジットという儀式をしていました。

彼には、ナチケータスという名の息子がいました。

तँ ह कुमारँ सन्तं दक्षिणासु नीयमानासु श्रद्धाविवेश सोऽमन्यत।। 1.1.2
tam̐ ha kumāram̐ santaṃ dakṣiṇāsu nīyamānāsu śraddhāviveśa so'manyata|| 1.1.2

自分もお父さんの持ち物だから、誰かに寄付されるのだと思ったナチケータスは、

お父さんに、「僕を誰にあげるの?」のしつこく聞きます。

儀式に忙しいお父さんは、しつこい息子に対して、

怒りに任せて「お前なんて死神にあげるよ!」と言ってしまいます。

死神のところに送られるも、主人ヤマは不在。

3日3晩待った後、待たせてしまって悪いと思った死神ヤマから、

3つの願い事を叶えて貰う権利を授かります。

...

少年ナチケータス


カタ・ウパニシャッドの主人公は、少年ナチケータス。

マントラでは、「クマーラ」と形容されています。

まだ幼い少年でありながら、死神ヤマから、

しっかりブランマ・ニャーナを教えてもらうのです。

死神ヤマは、教えを乞われても、最初は教えることを拒みます。

引き換えに、長生き出来る特権や、高級車や美女を差し出します。

そんな誘惑に乗らない(若すぎるから?)ナチケータスだからこそ、

このブランマ・ニャーナを知ることが出来るのです。

彼の成長が伺える点が他にもあります。

死神ヤマは、ナチケータスに、3つの願い事を叶えてあげる約束をします。

ナチケータスが最初に頼んだのは、

生きてお父さんのところに帰してもらう事。

お父さんの後悔も怒りも悲しみも記憶も無くなって、

今までどうりに幸せな親子関係を持てる事。

ここで、息子としての、家族に対する責任と義務をしっかり果たしているのですね。

2つめは、天国に行く為の儀式の方法を教えてもらうこと。

ナチケータス自身は天国に興味はないのだけれど、

社会の人々の健康な幸福の実現の為に、この儀式の方法を学び、

生前の社会に戻った後、人々にこの儀式の方法を教え伝えるのです。

この儀式は後に、「ナーチケータサ」と言う名で知られるようになります。

ここでは、社会の幸福の為に貢献しているのですね。

そして、3つ目にやっと、ブランマ・ニャーナを乞うのです。

これが、人間の成長のステップであり、順番は抜かせないって事なんでしょうね。






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私の能力、行動、判断において、神性をみせてくれる祈りのある生活
   



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家、家庭、家系という意味のサンスクリット語です。