2016年8月14日日曜日

79.ダーナ(दानम् [dānam]) 与えること


「消費者」社会の現代の日本では、

豊かさとは、より多くのものを「ゲット」すること、という価値観ですが、

「貢献者」社会である伝統的なインドでは、

豊かさとは、より多くのものや思いやりを「ギブ」できること、という価値観です。

本当の豊かさを模索する上で、最近日本でも知られるようになってきている、

とても重要なインドの智慧のひとつ、「ダーナ」について、

伝統に沿って、正しく理解していただけるように紹介しますね。


ダーナの語源


「与える」という意味の動詞の原型「ダー(दा [dā])」に、

「~すること」という意味の接尾語「アナ(अन [ana])」を付けて出来上がり。

分かりやすいですね。



ダーナとは


ダーナとは、語源からみると単に「与えること」ですが、

与えられた人の幸せに貢献できるものを与えること、というのはもちろん、


インドの伝統文化に沿ってもっときちんと定義すると、

1.お返しの出来ない人

(お返しが出来るなら、それは普通の取引・やり取りであり、ダーナではありません。)

2.自分が与える義務の無い人

(家族の扶養・納税・賃金労働・何かしてもらったお礼はダーナではありません。)

このような人に対して、自分からわざわざ歩み寄って与えることがダーナです。


与えることのできるものは、自分が与えられているものなら何でも、です。

金品だけに限らず、 時間や能力・知識など、自分に与えられているものは全て、

他の人や動植物に与えるために、そうして思いやりを表現するために、与えられているのです。

もし自分に思いやる気持ちがないのなら、与えることを実践してみて、

思いやりとは何かが分かるように、全てのものは自分に与えられているのです。


「与えられる」という能力は、その人の心の豊かさを表しています。

どれだけの富を持っていても、心が貧しければ、ダーナは出来ません。

富の蓄積が無くても、心が豊かな人は、手に持っているものを差し出すことが出来ます。



インド伝統文化での「ダーナ」の意味



この「ダーナ」はインドの文化でとても高貴な行動とされ、

人間としての精神的な成長の表われとして讃えられ、

ゆえに、自己成長の手段として実践されています。


実際に与えてみて初めて、自分がどれだけ与えられているのか、

そして、自分がどれだけ満たされているのかが分かるからです。

世界平和を祈り、毎日独りガンガー・プージャーをするプージャリ(祭司)さん

サンスクリット文献の中でのダーナ


ヴェーダ文献の教えの全ては、ヴェーダーンタの教えとされる、

「あなたは無限の存在である」に集約されます。

自分のお金や持ち物のみならず、思いやる心や、時間、さらに思考能力までもを、

目先の快楽の獲得以外には絶対に使おうとしない、吝嗇な心を持つ人には、

ヴェーダーンタの教えを100万回の人生分聞いても、絶対に理解は出来ません。

自分が無限の存在であることをすんなり矛盾なく理解できる心は、

自分と周りとの限界に苛まされていない、思いやりに境界線の無い、

与えることのできる寛大な心です。

そのような心を育てるために、人生の全ての行動はあるのです。

ダーナは、心を育てるための、とても強力で有効な手段であると、

サンスクリットの文献のいたるところで教えられています。


バガヴァッド・ギーター(18章5節)

यज्ञो दानं तपश्चैव पावनानि मनीषिणाम् ।
yajño dānaṃ tapaścaiva pāvanāni manīṣiṇām |

「祈りの儀式(それぞれの義務)・ダーナ・タパスは、人間を清める行為です」

どのような立場の人でも、人生のどのステージにおいても、

自分のするべきこと(スヴァ・ダルマ)が、精神的な成長の手段であり、

それは、勉強であったり、家族を養うことであったり、労働によって社会に貢献することであったり、

その時その場所、その人によって、 いろいろ変わりますが、

上の三つ(祈りの儀式(それぞれの義務)・ダーナ・タパス)は、

全ての人の、全ての人生のステージで、共通してあるべきもので、

辞めたり、引退することの出来ないものだと教えられています。


タイッティリーヤ・ウパニシャッド(1章22節)

श्रद्धया देयम् । अश्रद्धयाऽदेयम् । श्रिया देयम् । ह्रिया देयम् । भिया देयम् । संविदा देयम् ।
śraddhayā deyam | aśraddhayā:'deyam | śriyā deyam | hriyā deyam | bhiyā deyam | saṃvidā deyam | 

「シュラッダー(これは善いことであるという信頼)を持って、与えなさい」

ダーナは、経済効果を狙った活動ではありません。
ダーナとは、祈りの表現方法のひとつなのです。


「シュラッダーが無いのなら、与えるべきではありません」

「ラクシュミーを持って(豊富に気前良く)与えなさい」

ダーナは、不用品の処分ではありません!

「羞恥心を持って(上からではなく、下から)与えなさい」

「(これで十分ではないかも知れないと)恐れを持って与えなさい」

「(受け取る人や状況が適切であるかの)知識をもって与えなさい」

一度与えたら、もう「ナ、ママ(私のものではありません)」なので、

使い道を気にしたり、口出ししたり、パトロンになったような姿勢で接したりするのは、

ダーナのスピリットではありません。


サーマ・ヴェーダ(セートゥ・サーマ)

दानेन अदानं तर । dānena adānaṃ tara |

「与えることが出来ない自分の小ささは、

与えるという行動によって、超しなさい」

知識と行動は、まったく別のものです。

どれだけダーナが善いことだと知っていても、実践しなければ意味がありません。

栄養失調の人が、どれだけ栄養学を勉強しても、栄養は摂れないのと同じです。

私の今の状況では、まだダーナなんて出来ない!と、状況のせいにしがちですが、

ダーナが出来ないのは状況のせいではなく、自分が出来ないだけだからです。

ダーナが出来るようになるために、たった一つの必要なことは、

自分が与えることを「選び取る」ことだけです。

聖地でアンナ(食べ物)・ダーナをすることは、とても高徳とされます。


ダーナについて、もう少し詳しく知る


日本ではいろいろ勘違いされて使われている言葉でもあるので、
もうちょっと実際的に詳しく見ると:

1.お返しの出来ない人に対して与えることが、ダーナ。

何かの見返りとして、もしくはお返しを見込んで与えることは、
生活の中での取引なので、ダーナとは呼びません。

2.スヴァ・ダルマの範囲外で与えることが、ダーナ。

自分の(=スヴァ)するべきこと(=ダルマ)を、スヴァ・ダルマと呼びます。
ゆえに、スヴァ・ダルマの範囲外とは、自分がしなくてもいいことを指します。
アフリカにボランティア活動をしにいかなかった、という理由で法的に責められることはありません。
反対に、子供にご飯を食べさせることは、ダーナとは呼びません。


また、「ダクシナ」と「ダーナ」とは、別々のものです。

ダクシナは、儀式・芸術鑑賞・学び等を完成させる要素のひとつとして、

それぞれ祭司・芸術家・先生に渡すお礼です。

それらのお礼はダーナとは呼べません。

バラタナティヤムの有名なダンサー。日本語も話せます。ガンガーにて。

特に、プージャーをしてもらった際に、祭司に対してダクシナをきちんとしないのは、

儀式が不完全になり、不吉とされるので気をつけましょう。

また、無料のイベントであっても、出演された音楽家・舞踊家には、

主催者が必ず、出演者とイベントのステータスに見合うダクシナをするのが常識とされます。

インドの文化とうまく馴染むための知識として、お役に立てれば幸いです。。。


おまけ: ダーナをした時には名前を公表するべきか?


日本にはダーナの文化が一般に成熟してないゆえに、有名人が公にダーナをすると、理不尽な批判にさらされるという不幸が相次いでいるようですね。。。

バガヴァッド・ギーターでは、何らかの間接的な見返りを期待してダーナをするのは「ラジャス」なダーナとされていますが、「名前を公表してはならない」という決まりはありません。

ヴェーダでも、ダーナをした人の話が多く讃えられており、隠れてしなければならない、という感じではありません。

むしろ、ダーナが出来るということはおめでたいことなので、「結婚しました」「おかげさまで誕生日を迎えました」と同じ感覚で、皆にシェアして、皆で喜ぶべきことです。

インドでも、ダーナをした人に対して、「Thank you」と英語文化で答えることもありますが、「ああ、ダーナをしたのね。Congratulations! おめでとう!」という方がインド的です。

(故人を偲ぶ機会としてダーナをすることもあるので、一概には言えませんが!)

実際には、わざわざ名前を公表する・される機会が無く、そのまま人知れずダーナをする人も多数いて、それを良しとする人も多くいます。
しかし、ダーナをしたと公表すること自体について批判をするという文化はありません。

ダーナをしたことを公表することによって、より多くの人々は勇気を与えられ、「じゃあ、私も!」と、
善い行いをするきっかけになるので、公表することは社会にとっても善いことです。

そして、仮に売名行為でダーナをする人がいたとしても、売名が動機となって、その人がダーナを出来ることになったのだから、悪いことではありません。
きっかけは何であれ、ダーナが出来なかった自分から、大きな一歩を踏み出したのです。それは祝福するべきことです。
一度ダーナをすると、その高貴な行動の力によって心は成長し、遅かれ早かれ、特別な動機がなくても自然とダーナが出来る寛大な人間へと必ず変化を遂げるようになっているのです。

そのような人と一緒に喜べるような社会になりたいですね。





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2016年8月3日水曜日

ガネーシャへのお祈りのシュローカ


ア(不)・ガ(動)・ジャー(娘)・アーナナ(顔)・パッドマ(蓮)・アルカム(太陽)

これらを全部足して一語にすると、その意味は何になるでしょうか?

答えは本文中にあります。


ものごとを始めるときには必ず、滞りのない達成を願い、

障害物を司るデーヴァター(法則)であるガネーシャに、

祈りが捧げられます。

ガネーシャへの祈りのシュローカには、いくつか良く知られたものがありますが、

その中で、わたくしの朝のクラスで使っているシュローカを紹介します。


अगजाननपद्मार्कं गजाननमहर्निशम् ।
agajānanapadmārkaṃ gajānanamaharniśam |

अनेकदन्तं भक्तानाम् एकदन्तमुपास्महे ॥
anekadantaṃ bhaktānām ekadantamupāsmahe ||

似たような音の繰り返しが、謎かけのようなっていて、

面白いシュローカです。

では、一語一語見ていきましょう。


1.ウパースマヘー (私たちは祈ります)


文章の基幹は、動詞によって決まります。

動詞は、उपास्महे upāsmahe 「私たちは、心に描きます、認識します、瞑想します、祈ります。」

そうすると、「何を?」という疑問が湧いてきます。

「~を」という目的語を表す言葉は、サンスクリット語では大体

「m」で終わる単語を見つければOK、です。本当に大体ですが。

あ、でもこのシュローカでは、目的語以外の単語もすべて 「m」で終わってる。。。

そんなこともあるさ。


2.ガジャーナナ(象の顔をした)


このシュローカには、目的語が全部で4つあります。


目的語の中で一番わかりやすい言葉は、

गजाननम् gajānanam 「象の顔をした」 ガネーシャのことですね。

ガジャ गज gaja が「象」で、アーナナ आनन ānana は「顔」という意味です。

「象のような顔を持った」という複合語(サマーサ)になります。


3.長い複合語


このガネーシャを説明するのが、その前の長い複合語(サマーサ)です。

アガジャーナナパッドマールカム अगजाननपद्मार्कम् agajānanapadmārkam

まず、「ガ」 ग ga とは、動詞の原型「gam (行く)」から派生した、「動く者」という意味です。

「ガ」に否定の「ア」を付けると、「アガ」 अग aga となり「動かない者」となります。

動かない者とは何でしょうか? ここでは「山」という意味です。

「山から生まれたもの(ज ja)」は、「アガジャー」 अगजा agajā です。女性形です。

山(パルヴァタ)から生まれた娘は、、、パールヴァティーですね。

シヴァの奥さんです。

ガネーシャのお母さんでもあります。
 

パールヴァティー(अगजा agajā)の顔(アーナナआनन ānana)は、

アガジャーナナとなります。
 
अगजा agajā + आनन ānana = अगजानन  agajānana



パールヴァティーの輝く顔は、大きく開いた蓮の花に例えられます。

蓮の花は、「パドマ पद्म padma」ですね。

蓮の花は、太陽が昇って初めて満開になります。

曇りの日は咲きません。

太陽の名前にはいろいろありますが、その一つに、「アルカ अर्क arka」があります。

パールヴァティーの顔を、満開の蓮の花のように輝かせる、太陽のような存在とは、、、

ガネーシャですね。

ゆえに、これらの言葉を全部ひとつにつなぎ合わせた複合語(サマーサ):

ア(不)・ガ(動)・ジャー(娘)・アーナナ(顔)・パッドマ(蓮)・アルカム(太陽)

अगजाननपद्मार्कम् agajānanapadmārkam は、ガネーシャを指しているのです。

サンスクリット語って面白いね~。

じゃあ次行きましょうか。



4.エーカダンタ(一本の牙を持つ者)



ガネーシャの名前として、もうひとつ良く知られているのは、

エーカダンタ एकदन्तम् ekadantam 「一本の牙を持つ者」 

エーカ एक eka が「1」で、ダンタ दन्त danta は、「歯」ですが、ここでは「牙」と解釈されます。

ガネーシャは、ヴャーサがマハーバーラタを口述したとき、

それを書き取るために、牙を一本折りましたね。それ故にです。

場所は、バドリナートのちょっと上にある、洞穴の中です。

画像検索したら、屋外の絵ばっかりでした。洞窟って言われているのに~。


5.アネーカダンタム?


「エーカダンタム」と対照的に、その前の言葉は「アネーカダンタム」です。

そのまま理解しようとすると、「一本以上、つまり沢山の牙を持つ者???」

になってしまします。

これがひっかけなのですね。

本当は、「アネーカダム」と「タム」に分けられます。

あ~おもしろ。

エーカ एक eka が「1」なら、アネーカ अनेक aneka は「沢山」です。

ここで「ダ」と言うと、「与える」という意味の「ダー दा dā」という動詞の原型からきた、

「与える者」という意味の単語になります。


「アネーカ(沢山のものを)」「ダ(与える者)」で、「アネーカダ」になります。


ガネーシャは、願えば願っただけ、沢山のもの、いや全てのものを与える力があります。

しかし、それは誰にでも、という訳ではありません。誰にとってでしょうか。

 

6.バクターナーム(認識する人々にとって)

 
バクターナーム भक्तानाम्  bhaktānām 「(ガネーシャを)認識する人々にとっての」

バクタとか、バクティという言葉は、一般的にとても誤解されている言葉です。

信奉とか、神への愛、とか、良く分からない言葉が上滑りしているだけだからでしょう。

信奉の対象について、神について、どういう理解をしているのか?


その前提がまったくないまま、信仰しろとか、愛を捧げるとか言っても、それは難しいでしょう。

人それぞれ適当にファンタジーいっぱいで思い描かれている対象が、

普通の信仰の対象の「神」であり、それに命や人生をかけることが出来るのも、

人間の、、、何と言いましょうか、ワンダフルなところです。

「神」とか言った瞬間、頭のボルトが外れて、無責任な考えになる。

勝手に思索するだけでなく、理論詰めで考えつくすのが、ヴェーダーンタです。



障害物といえども、何が障害で、何がそうでないかは、その場面によって変わります。

結局は、この全てを司っているのがガネーシャなのです。

司るとは?物理学や量子物理学や心理学やなんでもいいですが、

そのような、宇宙のミクロにもマクロにも見られる様々な法則と言う形で、

ここにあるもの全てを司っている、それがガネーシャです。

このようなガネーシャの理解があるとき、ここにある全てのものに、ガネーシャを認識している。

そのような人を、「バクタ」と呼ぶのです。


7.アハルニシャム(昼夜を通して)



全てにおいて、つまり、いつでも、どこにおいても、ガネーシャを認識しています。

ゆえに、「アハルニシャム」 अहर्निशम् aharniśam 「朝も夜も」という副詞が使われています。

バクタにとって、ガネーシャを、この全てを、正しく認識することに専念した人々にとって、

ここにあるもの全ては、正しい認識の為に、「与えられている」のです。

ゆえに、ガネーシャは、「アネーカダ(沢山のものを与える者)」と呼ばれるのです。


「その」、という代名詞である「タム(तम् tam)」、

つまり、障害を取り除き、全てを与える、ガネーシャを、

私たちは常に認識しています。

という意味でした~。


अगजाननपद्मार्कं गजाननमहर्निशम् ।
agajānanapadmārkaṃ gajānanamaharniśam |

अनेकदन्तं भक्तानाम् एकदन्तमुपास्महे ॥
anekadantaṃ bhaktānām ekadantamupāsmahe ||

こちらも:
55.バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ])- 深く関わること、献身的に努めること

56.バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])- バクティを持っている人
 




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