2015年10月19日月曜日

68.ドゥルガー(दुर्गा [durgā])ナヴァ・ラートリー・スペシャル 女神の名前シリーズ:2

दुर्गा 
[durgā]

1.ドゥルガー女神、創造と破壊の力(シャクティ)


2.理解されにくいもの



まず一つ目の意味から。


1.ドゥルガー女神、創造と破壊の力(シャクティ)


昨日のカーリーと同じように、創造と破壊を象徴する女神です。

カーリーはその名の通り、青黒い色で描かれていますが、

ドゥルガーは白くて、ライオンに乗っています。

マヒシャースラ・マルディニーとしても知られています。

その名の通り、マヒシャースラという魔物を殺したからことから由来している名前です。


アイ ギリナンディニ ナンディタメーディニ ヴィシュヴァヴィノーディニ ナンディヌテ~~

ギリヴァラヴィンディヤシローディニヴァーシニ ヴィシュヌヴィラーシニ ジシュヌヌテ~

私の好きな、『マヒシャースラ・マルディニー・ストートラム』です。

一見難しそうだけど、一度口に出すと、スラスラ出てきて、止まらない。しかも長い。

いかにもシャクティ!っという感じで力の湧き出るストートラムです。

バガヴァティ へー シティカンタクトゥンビニ ブーリクトゥンビニ ブーリクリテ~~

ジャヤ ジャヤ へー マヒシャースラマルディニ ランミャカパルティニ シャイラステ~

ここまでで1つのシュローカ。これが20番まで続きます。


なぜ武器を持った姿で描かれているのか


ドゥルガーはもちろん、カーリーも、ラーマも、ヴィシュヌも皆、

武器を持った姿で描かれています。

「守ってあげる準備はいつでも出来てるよ!」という意味です。

頼りにしたいから祈っている訳です。

何をどうもってして、頼りになるのか、本当のところを考え出したとき、

それに答えるのがヴェーダーンタです。

そして、二つ目の意味。


2.理解されにくいもの


दुर्दुःखेन गम्यते प्राप्यते
[durduḥkhena gamyate prāpyate]


「ドゥル(दुर् [dur])」=難しい

「ガム(गम् [gam])」は「行く」以外にも「理解する」という意味でも使われます。

「ガム(गम् [gam])理解」+「ダ(ड [ḍa])~されるもの」

この「ダ(ड [ḍa])」は、「ड् [ḍ]」の部分が取扱説明書で、

「अ [a]」の部分が中身です。

中身である「अ [a]」をどうやって取り扱うべきか、「ड् [ḍ]」が教えているのです。

「ड् [ḍ]」が教えるメッセージは、、

「前にある言葉の中の、最後の母音から始まる音を全て消して下さい」

(文法が好きな人の為に:डित्त्वसामर्थ्यादभस्यापि टेर्लोपः । という有名なपरिभाषाです。)

ということは、「गम् [gam]」の「am」の部分を消してしまうということですね。

そうすると、「ग् [g]」+「अ [a]」=「ガ(ग [ga])」だけになります。

女性名詞なので、女性接尾語「アー(आ [ā])」を付けて、

「ガー(गा [gā])」ですね。

「अ [a]」+「आ [ā]」=「アー(आ [ā])」、ディールガ・サンディです。

そこに、「ドゥル(दुर् [dur])」を付けて、

「ドゥルガー(दुर् [dur])」、理解し難いもの(女性)となるわけです。



どうしてドゥルガーは理解し難いのか?



ドゥルガー・デーヴィー(女神)は、シヴァ(イーシュヴァラ)と一心同体です。

離れて存在は出来ません。

アルダ・ナーリーシュワラの姿は、それを理解しやすい形ですね。


アルダ(半分)・ナーリー(女性)・イーシュヴァラなのです。

जगतः पितरौ वन्दे पारिवतीपरमेश्वरौ ।
jagataḥ pitarau vande pārivatīparameśvarau |

これは、カーリダーサ(昨日見ましたね)のラグ・ヴァムシャの

有名な、最初の祈りのシュローカです。

私が教えている3年コースのサンスクリット語のクラスでも、

毎日皆で唱えています。

「ジャガット(この宇宙の全て)の父母である、

パールヴァティーとパラメーシュヴァラに、

尊敬の念を表します。」

イーシュヴァラは、シャクティと、不離一体なのです。

だからこそ、その本質はひとつ。アドヴァイタです。


ひとつしか無いのだから、しかもそれはあなたでしかあり得ないのだから、

これほど分かりやすい事は無いのに!と思うのですが、

「ドゥルガー(理解され難いもの)」なのです。


理解に必要なもの



「理解」というからには、マインド(心、頭脳)が必要です。

マインドが準備されていなければ、理解は出来ません。

掛け算をまだ習っていないマインドが、

「8X9=72」を理解できないのと同じです。


ヴェーダーンタの「イーシュヴァラはあなたです」のヴィジョンも、

準備の出来ていない心=人間として成熟していない心

では理解出来ません。


それゆえに、こんなに明解な真実も、

「そういう意見って面白いよね。分かる分かる!

でも僕は違うと思うけど。」で片付けられてしまうのです。


心の準備、つまり人間として成熟した心とは、

出来るだけ短い言葉で言うと、客観的で、コンパッションのある心です。

当たり前と言えば、当たり前のことですが、

客観性やコンパッションというものは、

それの価値を充分理解し、意識して培っていくものです。


そして、そんな人間として成熟した心は、

自分のすべきこと「スヴァダルマ(स्वधर्मः [svadharmaḥ])」

に徹した生き方でしか得られません。


何が人間として成熟した心なのか?


上で示したように、プラマーナのはっきりしているインドでは、

人間としての成熟とはなにかも、はっきり定義され、詳しく説明されています。


一方、プラマーナの無い国、日本では、それははっきりしていませんね。

何でも「個人の問題」で片付けられて、さまよい続けています。

もちろん個人差はありますが、

日本人ほど、全体的にダルマのレベルが高い国も珍しいのに、

「何がダルマか」というのを、はっきりしたがらずに、

「個人」「感覚」「好きなことを!」という傾向が強く、

せっかく真面目に生きているのに、方向性が与えられていないのは、

インドから見ていて面白いです。っていうか、もったいない!ですね。


インドは元祖「ダルマ」の国で、

揺れ動かない普遍的な「成熟した心」の価値感が、

何千年と伝えられている国なのにも関らず、

全体的に「君たち自由過ぎるよ~!!」のように感じることが多いです。


どちらにせよ、ウパニシャッドでもギーターでも、

アドヴァイタは、「理解され難いものである」と何度も言われています。

宇宙の創造がそういう風に出来ているのですね。


ハッピー・ナヴァラートリー!