2015年5月29日金曜日

58.シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ])- シャンカラという名前の先生

शङ्कराचार्यः 
[śaṅkarācāryaḥ]


masculine - シャンカラという名前の先生



アーディ・シャンカラーチャーリヤを囲む4人の生徒達。
パドマパーダ、トータカ、若いのがハスタマラカ、年寄りがスレーシュヴァラ。


はじめに


ヴェーダーンタは哲学でも科学でも宗教でもないので、

シャンカラーチャーリヤも、哲学者でも創始者でもありません。

アドヴァイタ・ヴェーダーンタを教え継ぐ、

脈々と続く伝承の中で、際立つ先生の一人です。

なぜ際立つのかと言えば、明瞭なコメンタリーを残したからです。

アドヴァイタ・ヴェーダーンタの教えは、

「無限の存在はあなただ」なのですから、

シャンカラーチャーリヤであれ誰であれ、

その意味を伝えることは出来ても、

変えることは出来ないのです。


シャンカラーチャーリヤという複合語の文法的派生


「シャンカラ(शङ्करः [śaṅkaraḥ])」とは前回でも見た、シヴァの別名です。

「アーチャーリヤ(आचार्यः [ācāryaḥ])」とは「先生」という意味の単語です。

「シャンカラという名前のアーチャーリヤ」という意味で、

これら二つの言葉を繋げて、「シャンカラーチャーリヤ」という

複合語(サマーサ)になります。

二つ以上の言葉が一つの言葉になったものを複合語(サマーサ)と言います。

サンスクリット語には、サマーサの種類が沢山あり、

それぞれに綺麗に仕分けられています。

「シャンカラーチャーリヤ」という複合語は、

二つの言葉の意味がどちらとも、一人の人物を指しているので、

「カルマダーラヤ・タットプルシャ・サマーサ」という複合語として分類されます。

(サマーサの分析は楽しいですよ!
いつか皆さんと目いっぱいサンスクリットの文法の勉強が出来ますように!)


音の面から見ると、「シャンカラ」の最後の「ア」の音と、

「アーチャーリヤ」の最初の「アー」の音がくっついて、

「ア」+「アー」=「アー」という連音変化(サンディ)になります。

1+2でも2なんですね。「アーー」と3にはなりません。

(今、英語で革命的にシステマティックでわかり易いサンスクリット語の教科書のシリーズを書いていて、世界中で好評を得ています。近いうちに、丁寧な日本語バージョンも書きますね!)


シャンカラーチャーリヤの生まれ故郷、ケララのカラディという場所。
8歳のときに、そこに流れる川でワニに食べられそうになり、
死ぬ直前ということで、出家僧になる許可を母から得て、
晴れてサンニャーシーになったそうです。
もちろん、ワニには食べられずに生き残ったわけですが、
33歳の短い一生で、多くのコメンタリーを残しました。


アーチャーリヤという言葉の意味


サンスクリット語には、先生という言葉にも何種類かあり、

それぞれに意味が異なります。

「アー(आ [ā])」という接頭語と

「チャル(चर् [car])」という動詞の原型の組み合わせによる単語ですが、

その意味に沿って3つの意味を説いた、こんな節があります。

आचिनोति च शास्त्रार्थं आचारे स्थापयत्यपि ।
स्वयमाचरते यस्तु स आचार्य इति स्मृतः ॥
ācinoti ca śāstrārthaṃ ācāre sthāpayatyapi |
svayamācarate yastu sa ācārya iti smṛtaḥ ||

1.文献(ヴェーダ)の意味を教え、

2.その意味に従って生きるように教え、

3.自分自身も文献の意味に生きる人、

そのような人がアーチャーリヤと呼ばれます。

文献の意味とは2種類の意味があります。

ひとつは生活様式、もうひとつは自分・世界・イーシュワラの意味です。

どちらの意味でも取ることが出来ます。


毎日シャンカラーチャーリアの残した解説書によりヴェーダーンタを教えてくれた、

私の先生方は、まさに、「自分自身も文献の意味に生きている人」でした。

彼らの生き方、世の中との接し方を見ているだけで、

私の人生の意味がコペルニクス的大変化を遂げました。

大きく、与えることに徹し、一切のものに感情的に依存していない、

文献の教える意味そのものの人物、それが本当のアーチャーリヤです。


ヴェーダが教える知識


インドの聖典ヴェーダは、人類の幸せの追究を満たしてくれる為の

知識を教える文献です。

その知識は、人間の経験や憶測によるものではないので、

独立した一つのプラマーナとして見なされています。


ヴェーダで教えられている知識の殆んどは、あるべき生活様式や、

「~が欲しければ、~すれば良い」といった儀式の知識です。

それらは全て、知った後で実際に行動に移して、やっと意味を成す、

「実行する」ための「行為(カルマ)」の知識です。


「行為(カルマ)」の知識とは別に、

その知識は先生から生徒へ、そしてその生徒が先生になり生徒へと、

教え告がれてきました。

その途切れの無い、知識の伝授の系譜を「パラムパラー」と呼びます。

先生の理解と、それを教えてもらった生徒の理解は、

完全に同じでなければなりません。

無限であり、部分の無い一つの存在において、99%の理解などあり得ないからです。


シャンカラーチャーリヤとは


シャンカラーチャーリヤは、この知識の伝承「パラムパラー」の先生の一人です。

先生と生徒の理解が全く同じである、師弟の連鎖の一人なのですから、

彼自身の特別な貢献はありえません。

彼がなぜ知られる事になったかというと、

それまで口伝のみで教えられてきた伝統の正しい教えを、

注釈書という形で(もちろんサンスクリット語)、文字におとしたからです。

いつの時代でもそうであるように、シャンカラーチャーリヤの時代にも、

混乱し、間違ったウパニシャッドの理解が氾濫していました。

間違いは間違いだと指摘し、混乱を正し、

伝統の正しい理解を後世に残す為に、

ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーター、そしてブランマ・スートラに

注釈書を書くことを決心したのです。

その心意気は、バガヴァッド・ギーターの注釈書の始めにはっきりと、

彼自身によって書き表わされています。(*1)

シャンカラーチャーリヤの一生が映画化されています。

アーディ・シャンカラーチャーリヤとは



シャンカラーチャーリヤ以降、ヴェーダーンタを教える伝統の中で、

際立った先生には「シャンカラーチャーリヤ」というタイトルが与えられます。

それらの後の世代のシャンカラーチャーリヤと区別する為に、

元来のシャンカラーチャーリヤを、「最初の(アーディ)」という形容詞をつけて

「アーディ・シャンカラーチャーリヤ」呼ぶことがあります。

アーディ・シャンカラーチャーリヤは、インドの東西南北に、

4箇所のピータ(学問の為の「座」)を立て、4人の直弟子にそれぞれを任せました。

その4つのピータの最高位に立つ僧が「シャンカラーチャーリヤ」と呼ばれます。

現在ではなぜか、100人近くのシャンカラーチャーリヤがいる模様です。



シャンカラーチャーリヤという人物



ヴェーダーンタの勉強をする前には、必ず祈りのシュローカ(詩節)を唱えます。

この知識の伝統の中の先生達に「ナマハ」と敬意を示し、

知識を受け取られるよう、心のあり方を整え、

その為に必要なグレース(プンニャ)を得るために、

祈りのシュローカを唱えるのです。

その祈りのシュローカの中で、よく使われるのが、

シャンカラーチャーリヤという人物を説明しているシュローカです。

伝統の中の先生達のあり方を知り、心に持つことによって、

先生達とのコミュニケーションが出来る心が準備されるのです。


श्रुति-स्मृति-पुराणानाम् आलयं करुणालयम् ।
नमामि भगवत्पादं शङ्करं लोकशङ्करम् ॥
śruti-smṛti-purāṇānām ālayaṃ karuṇālayam |
namāmi bhagavatpādaṃ śaṅkaraṃ lokaśaṅkaram ||


文章の基幹:

私はその偉大な人物に敬意を示します。(भगवत्पादं नमामि [bhagavatpādaṃ namāmi])


その人物とは?:

シャンカラ。吉兆をもたらす人。シヴァの生まれ変わり。(शङ्करम् [śaṅkaram])


そして、この世の中に吉兆をもたらす人。(लोकशङ्करम् [lokaśaṅkaram] )


ヴェーダーンタも含めたヴェーダの意味(श्रुति [śruti])
マハーバーラタ等のスムルティと呼ばれる文献(स्मृति [smṛti])
そしてヴィシュヌ・プラーナなどのプラーナと呼ばれる文献(पुराण [purāṇa])

それら全ての文献に精通し、伝えられるべき意味を理解している人(आलयम् [ālayam])


それぞれの文献学者はいつの時代にも多くいますが、

ヴェーダーンタの意味を知りつつ、

さらに他の文献にも精通しているというのが、シャンカラーチャーリヤという人物です。


単に物知りなだけではなく、優しさや思いやりという言葉の意味

そのものの人物でもあります。(करुणालयम् [karuṇālayam])

「カルナー(करुणा [karuṇā])」とは、愛しみ、コンパッション、思いやり、共感

という意味のサンスクリット語です。


私はこの何年間か、ここ南インドのアシュラムにおいて、

シャンカラーチャーリヤの注釈書の一言一句を、

深く分析しながら、生徒達に説明するという生活を送っています。

一言一句の言葉の中に感じることは、彼のカルナー(愛情)ばかりです。

シャンカラーチャーリヤは無駄な言葉を一つも使わないという、

言葉の規律を尊重、厳守する人です。

彼の簡潔かつ理論的な言葉の選択という作業と、

その集大成である注釈書を書かせた動機は、

理解したいと願う、後世の生徒達への思いやりのみです。

それ以外のインタレストは彼には無いということもありますが、

言葉選びのひとつひとつに、母親のような愛情を感じられずにはいられません。


シャンカラーチャーリヤの像。
リシケシのテンプルにも、南インドのレクチャーホールにも、
黒いグラナイトで出来たシャンカラーチャーリヤの像があります。
オレンジはサンニャーシーの色。


シャンカラーチャーリヤが教えているのは、

シュルティで教えられている、アドヴァイタ・ヴェーダーンタです。


シュルティとは何か、プラマーナとは何か、そして、

アドヴァイタ・ヴェーダーンタが教えていることは何か、

に間して、一般的な学者達に理解されていないがゆえに、

シャンカラーチャーリヤに関しても、間違った認識がされています。

ここでは、それらについて考えて見ましょう。


シャンカラーチャーリヤは哲学者ではない?


哲学とは、哲学者と呼ばれる人間が、その人の知能を使って、

新しい概念や思想を打ち立てる人です。

一方、シャンカラーチャーリヤは、彼自身の意見や思想を持って教えていません。

人類の創造から脈々と続いている、ヴェーダの意味を教え継ぐ

先生と生徒の中の一人に過ぎません。

ヴェーダの教える意味、先生の理解、生徒の理解、全てが一致してこそ、

「知識の伝承」なのです。

しかも、教えている内容が、無限の存在なのですから、

ある先生の新しい考えを挿入することは出来ません。

シャンカラーチャーリヤの教えるヴェーダーンタのヴィジョンの中に、

彼自身の貢献は一切無いのです。


シャンカラーチャーリヤは、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの創始者ではない?


上と同じ理由で、シャンカラーチャーリヤだけではなく、

ヴャーサであれ誰であれ、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの創始者などいません。

重力の法則に創始者がいないのと同じです。

ヴェーダ自体にも著者はいません。

ニュートンのように、重力を発見した人がいるように、

ヴェーダのマントラを発見した賢人達がいます。

しかし、ヴェーダのマントラは、賢人たちによって著されたものではないのです。

ニュートンが「私のおかげで重力があるのだ!」と言えないように。


ゆえに、全てのヴェーダが人類に教えようとしている、

最終的な教えである、アドヴァイタ・ヴェーダーンタにも創設者はいません。

そういう意味で、ヴェーダーンタは宗教でもなく、

哲学でもなく、科学でもないのです。


ヴェーダーンタは宗教ではない


ヴェーダーンタが宗教ではない所以は、

創設者がおらず、また信仰の対象ではないからです。

重力の法則に創設者がいないのと同じです。

また、重力の法則は、理解の対象であって、信仰の対象ではありません。

同じように、ヴェーダーンタはきちんと頭を明瞭にして、

主観や曖昧さを排除して、理解される為の対象であって、

信仰の対象ではありません。


ヴェーダーンタは哲学ではない


人の憶測などをベースとしているものが哲学というものです。

ヴェーダーンタのみならず、ヴェーダはプラマーナです。

まずは、プラマーナとは何であるかを、しっかり理解してからでないと、

ヴェーダ、ヴェーダーンタを勉強する意味はありません。

(質問があったので、ここに答えをまとめてシェアしますね。
「質問:ヴェーダーンタは哲学ではないとは?」


ヴェーダは科学ではない


科学というものは、

1.人間の五感と、

2.五感から得たデータを基にした推測

をプラマーナとして、理論を打ち立て、実験によって実証した知識です。

ヴェーダ自体が、1と2のプラマーナが扱う範囲とは、全く別の範囲を扱うプラマーナです。

そういう意味で、科学とは全く関係ありません。


今回は少し難しいテクニカルなことを書いたかもしれませんが、

とても大事なところなので、伝統を知る正しい先生についてしっかり勉強してください。




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不老不死の秘薬とは?

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(*1)ギーターのバーシャ(注釈書)の冒頭より:
तदिदं गीताशास्त्रं समस्तवेदार्थसारसङ्ग्रहभूतं दुर्विज्ञेयार्थम् ।
全てのヴェーダの意味のエッセンスであるギーターの意味は、理解が困難とされている。
तदर्थ-आविष्करणाय अनेकैः विवृतपदपदार्थवाक्यार्थन्यायमपि अत्यन्तविरुद्धानेकार्थत्वेन लौकिकैः गृह्यमाणम् उपलभ्य अहं विवेकतः अर्थनिर्धारणार्थं संक्षेपतः विवरणं करिष्यामि ।
その意味を明らかにするために、多くの学者によって研究が成されて来たが、とてつもなく矛盾した解釈が多く存在しているように世の中では理解されている。
それを見て私は、正しい理解により、ギーターの意味をはっきりさせる為に簡潔な説明を書くことにした。

2015年5月9日土曜日

57.シャンカラ(शङ्करः [śaṅkaraḥ])- 吉兆をもたらす者、シヴァの名称のひとつ

शङ्करः 
[śaṅkaraḥ]


masculine - 吉兆をもたらす者、シヴァの名称のひとつ




シャンカラの語源


シャム(吉兆を)カローティ(作る者)イティ(というのが)シャンカラハ。
शं मङ्गलं करोति इति शङ्करः [śaṃ maṅgalaṃ karoti iti śaṅkaraḥ]


「シャム + カラ」という2つのパーツから成っています。

「シャム(शम् [śam])」とは語尾活用しない名詞で、

「吉兆、幸福、喜び、おめでたい、マンガラ(मङ्गल [maṅgala])」という意味です。

「カラ」は英語の「make(作る)」に相当する「कृ [kṛ]」という動詞の原型に、

「~する人」という接尾語を付けて出来た言葉です。

「吉兆(シャム)を作る、もたらす者(カラ)」で、

シャムの「M」の音と、カラの「K」の音を続けて発音しやすくして、

「シャンカラ」となるわけです。

(パーニニ文法は一番下を参照してください。)

創造には必ず父親と母親が必要です。
ゆえに、ヒンドゥーの創造に関わる神は必ず夫婦になっています。


シャム(吉兆)の意味


「シャム(शम् [śam])」という動詞の原型は、

シャーンティ(शान्तिः [śāntiḥ])」でも見たように、

「平和、平穏、静寂になる、静止する」という意味です。

ジタバタしていない、何も不満も無い、平和な心にこそ幸せが見つかります。

幸せとは結局、外から与えられた刺激ではなく、

不満の無い状態なのです。

今の自分に不満を持ってソワソワと何かを追い求めていることをしていない時、

人は、私は幸せだ、平和だ。と言うのです。

「シャム(शम् [śam])」という動詞には「破壊する」という意味もありますが、

それは、ザワザワと動いていたものが静止する、という意味からだと思われます。

名詞の「シャム(शम् [śam])」は、「幸福、吉兆」という意味にのみに使われます。

先にも説明したように、「おめでたい、マンガラ(मङ्गल [maṅgala])」

という意味ですが、具体的に言うと、

「シャム(शम् [śam])」とは、皆が欲しがっているものです。

欲しい物の対象は、家族の健康であったり、車や家など、

人それぞれに、無数にあります。


誰に頼むか?


私達が持っているもの、これから持つであろうもの、

全てを与えてくれていて、これからも与え続けられる能力のある人って、誰でしょうか?

政治家でも大金持ちでも無理ですね。

全てを持っている人でないと、全てを与えることは出来ません。

この宇宙の全てであり、カルマの法則に従って、モノや出来事を循環させているのが、

イーシュワラ、またの名を、シヴァです。

ナタラージャ、踊るシヴァ。
振り乱された髪の毛が、常に動き続ける宇宙を表しています。
シヴァのダンスそのものが、この宇宙の全ての象徴なのです。


あれこれ欲しいものだらけで、追いかけているうちに終わってしまう人生ですが、

私たちは頑張って努力して、ひとつひとつ手に入れて行きます。

自分の力ではどうにもならない事もいっぱいあります。

そんな時に、「そこをどうにか!」と頼みいれるのなら、

そこなへんの小さな権力者にお願いするよりも、

全宇宙を司っている者にお願いするのが賢明です。

ヴェーダの文献にはお願いの方法が教えられています。

完全に頼りに出来る、全てを司っているのが、

デーヴァ(それぞれの法則を司っている神々)の中のデーヴァ、

つまりマハーデーヴァ(最高のデーヴァ)です。

マハーデーヴァもシヴァの別名です。


全人類の求めているたった一つのもの


人々が欲しがっている物の対象は、人それぞれに無数にありますが、

突き詰めてよく観察すると、

全人類の求めているものは、たった一つのものだと分かります。

それは、「何も欲しがっていない自分」です。

何も欲しがっていない、ということは、「満たされている」ということです。

欲しいのは、物でも人でもなく、「満たされた自分」なのです。

欲しくないのは、「欲しがっている自分=満たされていない自分」です。

「満たされていない自分」から、どうやって解放されるべきか?

幸せな家族や、家や車や権力を手に入れても、

それらによって満たされた自分でいられるのは、運次第の一定期間だけです。

この宇宙は全てが動き続け、全てが相対的であり、

自分を取り巻く状況は、一瞬たりとも同じではありません。

来年、明日、次の瞬間さえも、何が起こるとは誰にも予測出来ません。

それが私達の住んでいる宇宙の在り方です。

常に動き続ける宇宙は、踊るシヴァとして表されています。
全てがめまぐるしく変化する中で、私達が安心して幸せを感じられるのは、ほんの一瞬、、

自分の幸せが、常に変わり続ける状況に頼っている以上、

100%永遠に満たされている自分でいられるのは、

100%無理!です。

本当に100%無理なのでしょうか。

ヴェーダは、可能性を教えてくれます。

「何の制限も無く満たされている、幸福の意味は、あなたな自身のですよ」と。

こんなに制限だらけの不完全な身体と心に閉じ込められていながら、

「はぁ、そうですね」なんて簡単に受け止められません。

ゆえに、ヴェーダの言葉の意味を知る先生にガイドしてもらいながら、

全てをゆっくりと検証し、ヴェーダの教えを正しく理解する必要があるのです。


吉兆をもたらす者って誰?


一人の人間でも、役割によって様々な名前で呼ばれます。

子供からは「お母さん」と呼ばれます。

お母さんと呼ばれたら、お母さんとして、子供に与えるものを与えます。

同じ人が会社では「社長」と呼ばれます。

呼び名によって、その名前によって期待されている役をこなすのです。

「シャンカラ」は、幸せを作ってくれる人、吉兆をもたらしてくれる人、

という意味です。

イーシュワラを「シャンカラ!」と呼べば、

「幸せにして欲しいんだね」といって、答えてくれるだろう、という訳です。


しかし本当のところは、全知全能のイーシュワラは、

何が欲しいのかをわざわざあなたに言ってもらう必要はありません。

あなた自身が「自分は何を欲しいのか」を知る必要があるのです。


あなたの欲しいものが、車や家、人間関係など、有限なものであるとき、

あなたの祈りが、将来に出てくる結果に関わる、ひとつ要因となって、

カルマの法則であるマハーデーヴァに捧げられます。


あなたの欲しいものが、無限であるとき、つまりヴェーダが教えていたように、

「何の制限も無く満たされている、幸福の意味」に私はなりたい!

のなら、さすがのマハーデーヴァも困ってしまいます。

なぜなら、無限の存在というのなら、今ここにいるあなたを除外してはあり得ないからです。

つまり、何の制限も無く満たされている幸福は、既に今ここにいるあなたなのです。

既に得られているものを与えることは、イーシュワラにも出来ません。

既に得られているのに、それを持っていない!と言う人には、

それを既に持っているのだよ、と理解してもらうしかありません。

その理解に必要な全てのグレースを与えることによって、

あなたを幸せにするのが「シャンカラ」なのです。

次回は、このシャンカラのアヴァターラと言われている、

シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ])について書きますね。


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文法のコーナー
शं करोति इति शङ्करः
शम् + कृ + अच्          ३.२.१४ शमि धातोः संज्ञायाम् । 
शम् + कर् + अ           ७.३.८४ सार्वधातुकार्धधातुकयोः । ~ गुणः
शंकर                         ८.३.२३ मोऽनुस्वारः ।
शङ्कर                       ८.४.५८ अनुस्वारस्य यञि परसवर्णः ।

अच् は、agent (कर्ता)を表すकृत्という種類の接尾語で、必ずशम्という目的語を取ります。
このように、धातुだけでなく、それに関係する名詞(उपपदと呼ばれる)を必要とする
कृत्-प्रत्ययを、उपपद-कृत्と一般的に呼び、派生した言葉は複合語になることから、
उपपद-तत्पुरुष-समासःになります。なぜतत्पुरुषになるかというと、
उत्तरपदが常に主要(प्रधान)な意味だからです。
派生した言葉を説明するための文章を、विग्रहवाक्यम्と呼びます。
शङ्करःという派生語のविग्रहवाक्यम्は、शं करोति です。
शम् が目的語、कृがधातु、तिがकर्ताを表しています。
तिङ्(動詞の活用接尾語)のひとつであるतिの代わりに、
同じकर्ताを表しているकृत्接尾語अच्を付加することによって、
文章と同じ意味の単語を作るのです。

2015年5月4日月曜日

56.バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])- バクティを持っている人

भक्तः 
[bhaktaḥ]


masculine - バクティを持っている人




バクタの語源


「バクタ」とは人を指す言葉です

前回で説明した「バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ])」を持っている人が

「バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])」です。

भक्तिः अस्य अस्ति इति भक्तः । (文法は下を参照のこと)

つまり、バガヴァーンとの繋がりを持っているひとが「バクタ」です。



バガヴァーンとは


この宇宙の全てのもの、全ての場所、全ての時間、それらの全ての知識、

空間、全ての元素、全ての力、全ての感情、全ての関係、

原因と結果の法則の全て、知っているものと知らないものをあわせた全てを

バガヴァーンと呼びます。

つまり、バガヴァーンとは、この宇宙の全てを指すのですから、

バガヴァーンと離れている人などいないのです。



あなたとバガヴァーンは別の存在では無い


あなたの怒りも、悲しみも、病気も健康も、全てバガヴァーンです。

それなのに、「自分は宇宙から切り離された存在なのだ」と、

誰もが疑いの余地も無く信じています。

怒りという感情は、「自分 VS 自分とは別のもの」といった、

自分と宇宙との隔たりや対抗を強く感じている、というものです。

悲しみも痛みも、人間が嫌う全ての感情はそんなものです。

そんな感情にバガヴァーンを見出すというのは、

「こういう状況に置かれれば、こんな嫌な感情が表れる。

そんな方程式が全人類に通用する。それが普遍の法則なのだ。

だから、こんな嫌な感情を味わっているというのは、

私の心の全ては、宇宙の法則の表れに他ならない」

という理解が、「バガヴァーンとの繋がり」なのです。

これは理解によるもので、想像や思い込みやポジティブシンキングではありません。



一般的な「神」の定義とその落とし穴


ヴェーダーンタを教える時には、「バガヴァーン」という言葉は使っても、

「神」や「God」という言葉は普通は使われません。

なぜなら、聞き手が勘違いするような言葉は避けるべきだからです。


「神」という言葉を、聞き手はどう受け取るでしょうか。

・ いるかいないか判らない者

・ 自分以外の誰か別の存在

・ 信じる対象

・ 非日常、この世の者ではない

・ 自分を審判するジャッジメンタルな存在

このような、既存の宗教が直接・間接的に植えつけた、

「神」という言葉のイメージが先行して、正しい理解を阻害してしまうからです。


ひとつひとつ駄目出しをしてみると、

問:いるかいないか判らない者?

答:この目の前にあるもの全てをバガヴァーンと呼びます。

目の前にあるものなんか無い!と言うのなら、それを言っているあなたが在るでしょう。

有るとか無いとか言う議論は、まずそれを議論する人が在る必要があります。


問:自分以外の誰か別の存在?

答:宇宙の全ての場所、全ての時間、それらの全ての知識、
それらに存在を与えている、ひとつの意識的存在がバガヴァーンの定義なのですから、
あなた以外の別の存在では在り得ません。


問:信じる対象?

答:信じないと存在出来ない神様なら信じるしかありませんが、
ヴェーダで教えられているバガヴァーンは、理解する為の対象です。


問:非日常、この世の者ではない?

答:「今、ここ、私」という意識的な存在がバガヴァーンの本質です。
日常も、非日常も、この世も、あの世も、どの場所も時間も全を指して、バガヴァーンという名前をつけているのです。


問:自分を審判するジャッジメンタルな存在?

答:そんな神様を信じてまで受け入れる価値はありますか?



ゆえに、手垢のついていない理解に繋がる言葉、例えば

「全体」とか「宇宙の法則」とか「宇宙の原因」とか

「イーシュワラ」とか「バガヴァーン」といった言葉を使って、

ヴェーダーンタを教えるのです。


繋がりとは、理解のこと


「バガヴァーンとの繋がり」とは「バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ])」であり、

つまり「バガヴァーンとの繋がり」とは「バガヴァーンの理解」なのです。

理解が深まれば深まるほど、繋がりが深くなる、と言うことが出来ます。

これが分かると、バガヴァッド・ギーターでバガヴァーン・クリシュナが、

バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])を4種類で説明した理由が解りますね。

1.困ったときの神頼みの人(アールタ)

2.成功の為にバガヴァーンを味方につける人(アルタールティー)

3.私(バガヴァーン)について知りたいと願う人(ジッニャース)

4.私(バガヴァーン)をその人自身として知っている人(ニャーニー)


知るためには適切なプラマーナが必要


この小さな自分について、

私を小さな存在にさせているこの世界について、

そして宇宙の全てであるバガヴァーンについて、

混乱した理解を正すのが、ヴェーダーンタの勉強です。

理解ベースであるがゆえに、プラマーナ(知る手段)が必要です。


バガヴァッド・ギーターは、バガヴァーン自身が教えている、

バガヴァーンについての知識です。


ギーター・アーチャーリャ(ギーターの先生)
クリシュナ

バガヴァーンついて、つまり自分を含めたこの宇宙の在り方について、

知れば知るほど、混乱が解ければ解けるほど、人生の意味がはっきりします。

自分に与えられた身体、家庭環境、社会環境の意味がはっきりします。

自分に与えられた、自分の自由意志で操ることの出来る、

手や足や目や口は、何か行動をする為にあります。

私の身体と感覚器官は、バガヴァーンの身体と感覚器官です。

何をするべきか?

それも自分に与えられています。

自分に与えられた家庭環境や社会環境、そして自分の置かれたその瞬間瞬間の状況、

それらが自動的に「今ここで何をすべきか」を決定しています。

それを実行しているとき、宇宙との調和があります。

つまり、バガヴァーンとの繋がりを持っている人です。

そこには「自分 VS 全宇宙」という、今まで自分を苦しめて来た図式では無く、

もっと大きくて、宇宙の中で心地よく調和している自分がいます。

何をするべきかがはっきり判断出来ない時は、

ダルマに沿った賢い先人を見習えば良いと教えられています。



宇宙と調和した行動を「ダルマ」と呼び、それは人間の心を成長させます。

常に要求している小さな自分から、与える側の大きな自分に成長するのです。

そんな成長した心を育てる為に、宇宙と調和した行動を選ぶ人を、

「カルマ・ヨーギー」と呼びます。

バガヴァーンと繋がっているという理解があるからこそ、

行動基準にダルマやアヒムサーといった価値感や姿勢が反映されるのです。

ゆえに、「カルマ・ヨーギー」は「バクタ」です。

「バクティ・ヨーガ」、「カルマ・ヨーガ」と別々に数えることは出来無いのですよ。


まずバクタがいる


社会で生きていれば、人間関係は避けられません。

人間関係には必ず絶対に問題が付きまといます。これも避けられません。

しかしよく見ると、自分の抱えている全ての問題は、

自分が演じている役割に関わる問題です。

私達は毎日様々な役割を演じています。

息子・娘、父・母、会社員、社会人、恋人、、、

これら全ての役柄を演じているのは誰でしょうか?

一つの役から、もう一つの役に、代わる代わる演じている役者は、

全ての役柄から自由な、独立した人間です。

それが、私です。

その私が、バガヴァーンの理解を深めると、いろんなことが分かってきます。

役割を与えたのは、宇宙の法則であるバガヴァーンです。

そして役割に付いてやってくる台本も、バガヴァーンによって書かれています。

全ての役柄をこなしているのは、バガヴァーンについて理解を始めた、

「バクタ」の私。

役柄を演じる前に、バクタの私がいる。

役柄に関する問題に巻き込まれる前に、バガヴァーンと関わっていれば、

役柄と自分の間にスペースが出来て、巻き込まれずに済む。

自分とバガヴァーンとの関係が深まるにつれ、

自分の役柄と関わっている相手からのジャッジメントを恐れたり、

無理解に傷ついたりしなくなります。

相手からどう勘違いされようと、結局は私とバガヴァーンの関係なのです。

そして、社会の真っ只中で様々な役割を熱心に演じながらも、

宇宙の在り方のなかで、リラックスしていられるのです。




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feminine - 深く関わること、献身的に努めること









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あなたを幸せ(シャム)にする者(カラ)。

幸せの意味から深く考察します。






文法:
भक्ति + सुँ + अच्     5.2.127 अर्शआदिभ्योऽच् । ~ तदस्यस्त्यस्मिन्निति
प्रातिपदिकसंज्ञा        1.2.46 कृत्तद्धितसमासाश्च । ~ प्रातिपदिकम्
भक्ति +  अ              2.4.71 सुपो धातुप्रातिपदिकयोः । ~ लुक्
भ-संज्ञा                    1.4.18 यचि भम् ।
भक्त्+  अ                6.4.148 यस्येति च । ~ भस्य लोपः
भक्त

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