2015年4月24日金曜日

55.バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ])- 深く関わること、献身的に努めること

भक्तिः
 [bhaktiḥ]


feminine - 深く関わること、献身的に努めること


ハヌマーンは、ラーマが大好き。
ラーマの為だったら何でもします。

バクティの語源


「バジ-世話をする(भज् सेवायाम् [bhaj sevāyām])」という動詞の原型に、

「~すること」という意味の抽象名詞をつくる接尾語「ティ(ति [ti])」を付加します。

後ろの「ティ」につられて「バジ」の「ジ」がカ行の「グ」になり、

さらに濁音「グ」が清音「ク」になって、「バク」+「ティ」で、

「バクティ、世話をすること、親愛をもって深く関わること」といった意味の単語になります。
スリランカで緊急事態発生!
ラーマの弟、ラクシュマナを助ける為に、ヒマラヤの薬草が必要!
ハヌマーン、ヒマラヤにひとっ飛び!しかし、暗い山の中で薬草を探せない!
えい!そしたら山ごとひとつ、スリランカまで持っていくよ~!

「バクティ」の使われ方


この「バクティ」という文化がある国インドでは、

「グル・バクティ」「ヴィシュヌ・バクティ」といって、

自分の先生や、自分の好きなデーヴァターに対して、

せっせと祈ったりお世話をしたり、と何かにつけ毎日積極的に関わっていくことを指します。

日本にはこのような目に見えるカタチ(フォーム)が無いので、

「バクティ」といってもピンと来ないかもしれません。


バジャン?


インドでは、「バクティ」と聞くと、バジャンで恍惚となって神様の栄光を讃える、、、
チャイタニヤ・マハープラブ
いうイメージが、一般的です。日本ではどうでしょうか。
現代でも変わらない!楽しそう!
「カリユガにはバクティ=神の名前を歌うしかない!」と、
ヴェーダーンタを勉強する人を批判することもあるそうです。

それはそれで、とても美しいことです。

しかし、「神様の栄光を讃える」為には、その栄光を知らなくてはいけません。

それを知らずにただ賞賛するのは、

- アインシュタインがNYで拾ったタクシーの運転手が、

「あなたはとても素晴らしい物理学者ですね!」と褒め讃える -

というたとえ話のようなものです。



そもそも、「神様」って何なのか?

世界で多くの信者を持っている信仰宗教の神様はこんな感じです:

無形だけど男性で、無形だけど、今ここではない別の場所の天国に居て、

あなたに不幸な状況を与え続け、あなたを原罪人呼ばわりし、

死後に助けてあげるから、生きている間に出来るだけ神様に好かれるようにしなさい、

というような、ジャッジメンタルな神様でしょうか?

そんな人、居ないほうがいいですよね。賞賛にも値しません。


まず知ることから


この宇宙の全てのものであり、全ての知識であり、

そして全てのものに存在を与えている、イーシュワラです。

そのイーシュワラの存在を教えるのがヴェーダです。

イーシュワラは、正しく知って理解する為の対象です。信仰の対象ではありません。

1+1=2や、重力の法則などは、理解するためにあります。

先生は、それらを理解しなさいと教えます。それらを信じなさい、とは教えません。

イーシュワラについても同じです。

あなたの目の前にあるもの全て、経験してきたもの全て、

知っていること全てと、知らないこと全てを併せた、全てを指してイーシュワラと呼ぶのです。


「関わる」とは「関わっていない事など無い」と知ること


「私」が、この身体や心で区切られた「個人」であるならば、

「全体」と対比しての「個」なのですから、

「全体」と深く関わっている「私」があります。

どの時間も、どこの場所も、どの人間も対象物も、全ては「全体」に包括されています。

ゆえに私が、いつ、どこで、何をやっていても、

「全体」つまりイーシュワラと関わっていない事など無いのです。

その関わりを認識するのが「バクティ」です。


イーシュワラ、つまり「全体」について知ることにより、

自分の事を、イーシュワラと深く関わっている「私」で認識すること、

それが「バクティ」なのです。


4つのパス(道のり)という混乱


「バクティ」と聞いて思い出すのが、この4つの道のりの話:

外向的で行動的な人は、カルマ(行為)・ヨーガ、
情緒的で信仰心の強い人は、バクティ・ヨーガ、
知的な人は、ニャーナ(知識)・ヨーガ、
どれにも当てはまらない、good for nothingな人は、ハタ・ヨーガ!!

この話を聞いた事のある人は多いと思います。

しかし、このようなことは、ヴェーダの教えの伝統にはありません。

ある有名なアシュラムの、ある有名な先生が、何十年か前に言い始めたものです。


正しいプラマーナを使って、イーシュワラについて知ることにより、

イーシュワラとの関わっている自分を見つけることが「バクティ」なのだと理解出来たら、

4つの道のりは、つじつまが合わないことが分かります。


イーシュワラについて知ることが、「ニャーナ・ヨーガ」であり、

知りたいと思うこと、知る為の姿勢、全てが「バクティ」です。

自分とイーシュワラの理解にもとづく姿勢が「バクティ」であり、

そのバクティの姿勢をもって、自分の義務を果たすことにより

人間として成長する生き方が「カルマ・ヨーガ」です。

ハタ・ヨーガは、「ニャーナ・ヨーガ」や「カルマ・ヨーガ」の生き方に必要な、

身体と心のコンディションを整えるのにとても効果的です。

「バクティ」は、4つのうちの1つには成り得ません。


バガヴァーンの教える「バクティ」


バガヴァーン(=イーシュワラ)とは何かについて、

バガヴァーン自身が教えたのが、バガヴァッド・ギーターです。

その中にこのような詩節があります。

चतुर्विधा भजन्ते मां जनाः सुकृतिनोऽर्जुन ।
आर्तो जिज्ञासुरर्थार्थी ज्ञानी च भरतर्षभ ॥ ७-१६॥
[caturvidhā bhajante māṃ janāḥ sukṛtino'rjuna |
ārto jijñāsurarthārthī jñānī ca bharatarṣabha || 7-16||]

「幸運な人々は、4種類の方法で私(バガヴァーン)に関わっています。
1.困ったときの神頼みの人
2.成功の為に味方につける人
3.私について知りたいと願う人
4.私を(その人自身として)知っている人」

それぞれを見てみましょう

1.困ったときの神頼みの人(アールタ)

普段はバガヴァーンとかいったものに興味は無いけれども、

苦境に陥って、自分の力ではもうどうにもならない時、神頼みしかない!

と思いついて祈りを捧げる人。

その後うまく行っても、バガヴァーンのおかげ!と思うかどうかは別として、

一時的にも「バガヴァーンに祈る」という関係を持てた人です。


2.成功の為にバガヴァーンを味方につける人(アルタールティー)

普段から、商売繁盛や家内安全などの為に、バガヴァーンに祈る習慣がある、

しっかり者です。世の中が分かれば分かるほど、成功や失敗には

「予測不可能な要因」が多様に関わっていることが見えてきます。

自分で出来ることはしっかりやる。予測不可能な要因にも、しっかり手を打つ。

その手の打ち方のひとつとして、

予測可能・不可能な要因すべてを司っている全ての存在、バガヴァーンに祈りを捧げる、

という実用的な方法で、日常的にバガヴァーンと関わっている人です。

でも、その人の心は、商売繁盛や家内安全にフォーカスしています。


3.私(バガヴァーン)について知りたいと願う人(ジッニャース)

単なる信仰の対象から、理解の対象へシフトした人です。

2から3が、革命的に大きなジャンプです。

バガヴァーンって何?誰?知ってなにかいいことあるの?

知るためには、それなりのプラマーナが必要です。

数学を知るためには数学の教科書、天文学を知るには天文学の先生が必要です。

バガヴァーンについて教えるのがヴェーダと、ヴェーダに関する文献です。

文献だけだと、どうとでも取れてしまうので、

何を言わんとしているかの全体像を明瞭に理解し、

さらにそれを、生徒に伝えられる能力のある先生が必要です。



4.私(バガヴァーン)をその人自身として知っている人(ニャーニー)

ここにある宇宙の全てはバガヴァーンです。

バガヴァーンの本質は1つ、ゆえにそれはあなたの本質です。

ハヌマーンとラーマの関係は?
と聞かれたハヌマーンが答えます。
身体というレベルでは主と使いの関係です。
個人というレベルでは友達のような同等の関係です。
そして本質的には、私はラーマ自身です。
伝えられるべき事が伝わり続けている先生と生徒の代々続く流れを「伝統」と呼びます。

正しい伝統を受け継ぐ先生のところに行かなければ、

大学で何十年勉強しても、ヒマラヤの山奥で何十年修行しても、理解出来ません。

「理解は出来たけど、体験しなきゃ」というのは理解出来ていない証拠です。


次回は、同じ動詞の原型から派生した「バクタ」という単語と、

さらに、「バジャ・ゴーヴィンダン」の解説もしますね。



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<< 前回 54.サットサンガ(सत्सङ्गः [satsaṅgaḥ])<<

一緒にいるだけで、自分を正しい方向へ、成長の方向へ、
明るい知識へと導いてくれる、大切な人々との繋がりを、
サットサンガと言います。









>> 次回 56.バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])>>

バクティを持っている人がバクタです。

既存の「神様」の定義の問題点にも迫ります。

2015年4月17日金曜日

54.サットサンガ(सत्सङ्गः [satsaṅgaḥ])- 善い人との繋がり、集まり

सत्सङ्गः 
[satsaṅgaḥ]


masculine - 善い人との繋がり、集まり




サットサンガの語源


「サット(सत् [sat])」と「サンガ(सङ्ग [saṅga])」という、

2つの言葉が複合語になって、「サットサンガ」になります。

ゆえに、まず「サット」と「サンガ」のそれぞれの意味を見て、

この2つの言葉がどのような関係を持って複合語になっているのかを理解しましょう。


サットの意味


「アス(अस् [as])= 存在する」という意味の動詞の原型から派生した「サット」には、

「存在する、真実の、高貴な、正しい、善い」といった幾つかの意味があります。

(詳しい文法的派生の解説は下を参照してください。)

それらの意味から、「善い人、ダルマに沿った正しい道を行く人、

つまり、ダルマを最優先にして生きている人、ダルマに生きた結果としておのずと、

人生の本当の意味を知る為に生きている人、次世代のお手本になる人」

といった人々を指すために「サット」という言葉が使われることもよくあります。


「サット」と呼ばれる人間の定義を見て、

「自分はそんな人間とは程遠い、そんな風には一生なれないよ~」と

思う人もいるかもしれません。しかし、誰にだって人を思いやる善い心はあります。

ダルマの根底にあるのは「アヒムサー(非暴力)」という価値感です。

アヒムサーという知識は、人種や性別、宗教や生まれ育ちに関係なく、

人間なら共通に誰でも持っているものです。


正しく教えられたヴェーダの知識は、そんな素晴らしい自分の一面に気付かせてくれます。

そして、自分の善い面を善いものだと知り、誇らしく思い、

それを培って大きく育てて行く方法を沢山教えてくれます。

その生き方を、ダルマの生き方と呼ぶのです。


ダルマの生き方、それは執着と嫌悪の支配から自分を解放すること


人間というものは、

「執着(ラーガ)=これが無いと私は幸せにはなれない!」と、

「嫌悪(ドヴェーシャ)=これさえ無くなれば私は幸せになれるのに!」の

2つに支配されています。

ある人や物、状況に対して精神的に依存し、その為ならダルマの一線を越しても構わない、

と思えてしまう心理・現実の理解が、ここで言う「執着と嫌悪」の定義です。

家族、恋人、人間関係、仕事、趣味、お金、権力、ファッション、健康、気分、etc.

に対する「執着と嫌悪」によって行動が決定されて、

忙しく西へ東へと走り回って、一生分の時間が過ぎます。




「本当にこれが無いと駄目?」「幸せって何?状況のこと?私のこと?」

などと客観的に問い直している時間も無いほどに、

無心に忙しく駆け回っています。一生は短いですから!

”自分の幸せを達成する為なら、少々ダルマに目をつぶっても、、、

周りのみんなだって普通に殺生しながら生きてるし!

私は幸せになりたいだけなの!幸せになる手段とは、

「執着と嫌悪」による行動をどんどん進めて、達成する事に決まってる!”

全人類がこのような世界観で行動し、全てのマーケットはそれが正しいことだと後押しします。

全ての根源は、「今の自分は駄目だ」という結論です。

「小さい自分 VS 巨大な世界」という認識から生まれる不安に押されて、

「執着と嫌悪」の追究が自分を幸せにする解決策だと信じて、行動を続けるのです。

これが古今東西の全世界の全人類の行動です。



一握りの運の良い人は、そんな渦中から一歩下がって、

自分の心の声を聞くことが出来て、

全世界の風潮から逆らってでも、ダルマの行動を始めます。

自分の都合の良さよりも、他の生き物の痛みに敏感になって行動を決めます。

自分の小ささから行動するのではなく、自分の大きさから行動をするのです。

ヴェーダの智慧は、自分がどれだけ大きな人間なのかを教えてくれます。

ダルマの生き方を実践すればするほど、自分がより寛大に成長します。

ダルマに生きるとは、「執着と嫌悪」から自分の行動を解放することです。

宇宙の法則の在り方(ダルマ)と調和した選択をしている人の心には、平和があります。

不安や恐怖、怒りさえも、宇宙の法則の中にあるのです。

心が惹かれたり離れたりすることも、宇宙の法則と調和しています。

だから、宇宙の在り方に安心して信頼していられるのです。

その人の心にはいつも平穏があり、常に客観性と思いやりに満ちた選択が出来るのです。


「執着と嫌悪」から解放された人の心には自然と、

「人生の本当の意味」について考えられる客観性と余裕が出てきます。

ここで「サットサンガ」が必要になります。


サンガの意味


サンガとは、「サンジ(सञ्ज् [sañj])= くっつく」という動詞の原型から派生しています。

そこから、「サンガ」は場合によっては「執着」のように使われる場合もありますが、

「関係を持つ、集まり、仲間」という意味にもなります。


「サットサンガ」の意味


「サット」と呼ばれる人達との繋がりを「サットサンガ」と言います。

自分と繋がっている「サット」な人々のことを「サットサンガ」と呼ぶことも出来ます。

そんな人々と集まり、一緒に話を聞いたり、勉強したり、歌を歌ったりして、

同じ時間を過ごすことも「サットサンガ」と呼びます。

人生の本当の意味を教えてくれる勉強を共にする仲間を「サットサンガ」と呼ぶこともあれば、

その意味を教えてくれる先生のことを「サットサンガ」と呼ぶときもあります。


サットサンガの必要性


ダルマの価値を良く知る為の教えに耳を傾ける、

ダルマを優先して生きる方法を学び、その生き方を生きる、

ヴェーダーンタやサンスクリットの勉強をする、

全ては独りで思いついて、独りで出来ることではありません。

最低、それについて教えてくれる先生が必要ですし、

見習える人や、サポートしてくれる人や体制が必要です。

プージャスワミジはいつも、このモークシャの為の生き方と勉強には、

「サットサンガが必要」と言っておられます。

人間の自然な傾向から逆らった追究であるがゆえだからでしょう。

私自身、始まりが無く繰り返されてきた前世の中で貯めたプンニャを全て使った、

といえるぐらい、今回の人生で、先生を始め、素晴らしい「サットサンガ」と呼べる人々に恵まれました。

本当に「サットサンガがあってこそ」と感謝があるのみです。。。


バジャ・ゴーヴィンダムのサンスクリット語を理解してみましょう


シャンカラーチャーリアが残した多くの詩歌の中で、特に有名なのが、

「バジャ・ゴーヴィンダム」です。

通説では全ての節がシャンカラーチャーリアによって作詞されたのではなく、

様々なアーチャーリャ(先生)たちの作品の寄せ集めだと言われています。


よく引用される節に「サットサンガ」という言葉が出てきます。

リズムがとても良く、発音も難しくないので、声に出して読んで貰いたく、
カタカナに訳してみました。

サットサンガットヴェー ニッサンガットヴァム
सत्सङ्गत्वे निस्सङ्गत्वं [satsaṅgatve nissaṅgatvaṃ]
サットサンガがあれば、限りのあるものに執着することが減り、

ニッサンガットヴェー ニルモーハットヴァム
निस्सङ्गत्वे निर्मोहत्वम् । [nissaṅgatve nirmohatvam |]
執着が無くなれば、現実に関する混乱が減り、

ニルモーハットヴェー ニスチャリタットヴァム
निर्मोहत्वे निश्चलतत्त्वं [nirmohatve niścalatattvaṃ]
現実に関する混乱が無くなれば、理解がぶれずに定着し、

ニスチャリタットヴェー ジーヴァンムクティヒ
निश्चलतत्त्वे जीवन्मुक्तिः ॥ [niścalatattve jīvanmuktiḥ ||]
理解がぶれない時、その人は生きながらにして全ての制限から自由である。

「~トヴェー」~がある時(第7格)、「~トヴァム」~がある(第1格)
という簡単な構成が4つ並んでいます。
ちなみに「トヴァ」とは、「~の状態」という意味です。

下線を引いた「ニッ」や「ニル」、「ニス」は全て語源は同じで、
3つとも全て、「~の無い」という意味です。

ゆえに、
サット(善い人との)サンガ(繋がり)がある時、サンガ(執着)が無い(ニッ)状態(トヴァ)がある。
ニッサンガットヴァがある時、モーハ(混乱)が無い(ニル)状態(トヴァ)がある。
ニルモーハットヴァがある時、チャリタ(ブレること)が無い(ニス)状態(トヴァ)がある。
ニスチャリタットヴァがある時、ジーヴァン(生きながら)ムクティ(自由)がある。

動詞の原型から全部知りたい人は、ご連絡下さい。


「バジャ・ゴーヴィンダム」の中で、私が好きなのは、
アーナンダギリというアーチャーリャが書いたとされる、この詩です。

ヨーガラトー ヴァー ボーガラトー ヴァー
योगरतो वा भोगरतो वा [yogarato vā bhogarato vā ]
ヨーガ(規律のある生活)に愉しんでいようが、ボーガ(快楽)に愉しんでいようが、

サンガラトー ヴァー サンガヴィヒーナハ
सङ्गरतो वा सङ्गविहीनः । [saṅgarato vā saṅgavihīnaḥ |]
サンガ(人々の中)で愉しんでいようが、人から離れていようが、

ヤッシャ ブランマニ ラマテー チッタム
यस्य ब्रह्मणि रमते चित्तं [yasya brahmaṇi ramate cittaṃ]
その人の心が、ブランマンにおいて愉しんでいるなら、

ナンダティ ナンダティ ナンダッティエーヴァ
नन्दति नन्दति नन्दत्येव ॥  [nandati nandati nandatyeva ||]
その人は愉しみ、愉しみ、ただ愉しんでいるだけ。

ブランマン(この宇宙の本質、無限の存在)が自分だと知っている人は、
他人から見てどうだとはジャッジ出来ないということです。

その人が何をしていようが、自分の本質を「知っている」ということ、
それのみが、その人を自由(限りが無い存在)にしているのだ。ということです。

文中に繰り返される「ram(愉しむ)」と共に、
最後の「ナンダティ」も「愉しむ」と訳しましたが、
幸せ=個人という限界から苛まされていないこと」という意味で「愉しみ」としました。

これぞ私の愉しみとして訳しているだけなので、インスピレーションとして取って下さい。
その意味をしっかり理解したい人は、伝統に基づいた手法でヴェーダーンタを教わった人で、
さらにその教え方を知っている人から、同じ伝統に基づいた手法で教わってくださいね。

一番有名な最初のスタンザ(詩)は、サンスクリット文法の勉強、
特にパーニニ文法を揶揄するもの、と間違って解釈されているので、
またの機会に説明しますね。


アシュラムでの「サットサンガ」の使われ方


先生から生徒へ、ヴェーダーンタの文献の意味を、

伝統的な手法で言葉によって伝えるフォーマルな文献の勉強の時間は、

それ自体がプージャーだと言われるくらいに神聖なものです。

ヴェーダーンタのクラスの最後に、先生にプージャーをする習慣がある程です。

そのようなクラスと区別して、フォーマルな教えの形式をとらない、

先生と生徒の集まりは、通称「サットサンガ」と呼ばれています。




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<< 前回 太陽礼拝(スーリャ・ナマスカーラ)の意味と、そのマントラについて <<







>> 次回 55.バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ]) >>

全体、宇宙、イーシュワラとの関わりを認識すること、
それが本当の意味のバクティです。







~~サンスクリット文法好きの人へ~~

「サット(सत् [sat])」
अस् भुवि + लट्   3.2.123
= अस् + शतृ      3.2.124
= स् + अत्    6.4.111
= सत्

「サンガ(सङ्ग [saṅga])」
सञ्च् सङ्गे + घञ्   3.3.18
सञ् ग् + अ     7.3.52
सन् ग् + अ     निमित्तापाये नैमित्तिकस्याप्यपायः ।
संग् + अ     8.3.24
सङ्ग् + अ    8.4.58

2015年4月12日日曜日

太陽礼拝(スーリャ・ナマスカーラ)の意味と、そのマントラについて

ヨガの教室に行った経験のある人なら、必ず習ったことのある、

「スーリャ・ナマスカーラ(सूर्यनमस्कारः [sūryanamaskāraḥ])」は、

太陽(スーリャ)に対して、礼拝(ナマスカーラ)する為の、

一連の身体の動作です。

英語なら、太陽(Sun、サン)への礼拝(Salutation、サルテーション)で、

「サンサルテーション」と呼ばれていますね。


礼拝(ナマスカーラ)とは?


太陽があるからこそ、地球が回り、大気と海流が動き、

地球上の全ての生命活動が可能になっています。

そのことを、「しっかり認識してます、感謝してますよ~」と、

身体を使って表すのが「礼拝(ナマスカーラ)」です。


もうちょっと詳しく言うと、

敬意を含んだ認識が「ナマハ」、

そう、インドの挨拶「ナマステー」の「ナマハ」です。

「ナマハ」を身体、言葉、心で表現する行為が「ナマスカーラ」です。


「でも私、認識はおろか、感謝も出来てないんだけどな」

そうであっても心配ありません。

認識や感謝は、それを表す形(カタチ)から入ると、どんどん深まるものです。

スーリャ・ナマスカーラは、私たちの認識や感謝を深めてくれるのに役立つのです。


太陽は、ナマスカーラされるのがお好き


太陽神スーリャ・バガヴァーンは、

「ナマスカーラ・プリヤ(ナマスカーラを好む者)」と呼ばれています。

スーリャ・ナラヤナ、またはスーリャ・バガヴァーン

ちなみに、シヴァ神は、「スナーナ(お風呂)・プリヤ」、

ヴィシュヌ神は、「アランカーラ(装飾)・プリヤ」とも呼ばれいます。

毎日豪華な飾り付けがされる

つまり、彼らを喜ばせ、グレース(幸運、さらなる恵み)を受けたいのなら、

ナマスカーラしたり、お風呂に入れたり(アビシェーカ)、飾り付けをしたらいいよ、

ということです。


ヒンドゥーは偶像崇拝?


シヴァ神とは誰かというと、結局のところは、この宇宙の全てです。

宇宙全体をどうやってお風呂に入れるのでしょうか?

宇宙の全てと関わる時には、何か目の前に象徴になるものを置き、

そこに宇宙の全て、時間の全て、可能性の全てを重ねて見るのです。

その為にはまず、宇宙の全てとは何かを知っている必要があります。

ヒンドゥーの生活様式は、その知識の伝承の為にあるのです。

ヒンドゥーというと、「迷信的に石像や動物を拝めている、幼稚な民族」と、

ヨーロッパからの宣教師や学者達がレッテルを貼って、世界にプロパガンダを流しています。

しかし実際には、ヒンドゥーの儀式では、

「この宇宙の真理とは」という知識の伝承を前提として、

石像や動物、人間の上にその知識を「故意的に」重ねているのです。


「個人」として「全て」と関わる方法


シヴァ・リンガという、ナルマダー河から産出される石は、

伝統においてシヴァの象徴とされているので、

シヴァ・リンガにアビシェーカ(沐浴)するのがシヴァを讃える儀式とされます。

ヴィシュヌ神も名前は違えど、同じバガヴァーン、宇宙の全てです。

石像を造り、それをマントラを使って寺院に備え付けたものを

ヴィシュヌと見立てて、プージャーをします。

では、太陽神スーリャとは、どのように関わるのでしょうか?

空に、目に見える太陽があります。

その太陽に向かって、スーリャ・ナマスカーラをして、

地球や身体や知識が照らされて、恵まれていることに畏怖と感謝を示すのです。

超高熱で燃え盛っている、水素の塊を礼拝しているのではなく、

太陽を、象徴(シンボル)として礼拝しているのです。

では、太陽は何を象徴しているのでしょうか?


太陽が象徴するもの


太陽(スーリャ)が象徴しているのは、

全てを可能にしているエネルギーと知識です。

サンスクリット語で言うと、

サルヴァ(全ての)・シャクティ(能力を)マーン(持つ者)、

サルヴァ(全てを)ニャ(知る者、全知識)、

どちらも、この宇宙の全てを指して使われる言葉です。

恒星も、この肉体も、素粒子も、全ては知識の塊です。

その知識を全部併せて一つにして呼ぶと、

サルヴァ(全てを)ニャ(知る者、全知識)になるのです。

なぜ、全知識と、全てを知るものが同じなのかというと、

知識というものは、意識的な存在の上に成り立っているからです。

この宇宙の全知識を支えている、一つの意識体。

その意識的な存在が一つなら、それは、今そこにいるあなた自身に違いないのです。


知識の光、意識の光


意識はいつも、光と例えられます。

太陽の光という物質的な光を、光として認識できる、その意識の光。

知識は意識と一体であり、意識は光であり、知識の光は、無知を追い払う。

今そこにいるあなた自身が、全世界が神として崇めている存在に他ならないのに、

あなたときたら、見た目やお金、人間関係など、

かなりスケールの小さい事で悩み苦しんでいます。

何故そんなことが起こり得るのかというと、

あなたが、あなた自身を、その程度のつまらない存在だと認識しているからです。

何故また、そんなことが起こり得るのかというと、

自分自身の存在について、あなたはそれが何かを知らないので、

とりあえず手近にある、身体や心のあり方、地位や所有物などで、

「自分とはこんなもの」と認識しているのです。

これが、世界中の誰もがしている「自分の認識の仕方」です。


スーリャ・ナマスカーラ・マントラ


太陽(スーリャ)に対する礼拝(ナマスカーラ)は、

全身を使ってする行為です。

なんでも行為というものは、

身体だけを使ってするよりも、言葉を使ったほうが、

言葉だけを使ってするよりも、心も使ってするほうが、

より大きな結果を生みます。

ゆえに、太陽礼拝(スーリャ・ナマスカーラ)も、

身体だけでなく、マントラという言葉を使ってする行為を含め、

さらにマントラの意味を理解して、その意味を心を使って思い描く行為にすれば、

スーリャから得られる恩恵がより大きくなります。

朝に太陽のある東に向かって、スーリャ・ナマスカーラをしましょう。

*サンスクリットの文法が好きな人の為に、最後に派生のリストを入れておきました。



1.ミットラーヤ・ナマハ
मित्राय नमः [mitrāya namaḥ]

全てのものを親愛する「ミットラ」に、ナマハ

ミットラとは、普通名詞だと友達という意味です。


2.ラヴァイェー・ナマハ
रवये नमः [ravaye namaḥ]

賞賛される者「ラヴィ」に、ナマハ


3.スーリャーヤ・ナマハ
सूर्याय नमः [sūryāya namaḥ]

空で動く者(スーリャ)、
もしくは全てのものを動かす者(スーリャ)に、ナマハ


4.バーナヴェー・ナマハ
भानवे नमः [bhānave namaḥ]

全ての世界を自らの光で輝かせる者「バーヌ」に、ナマハ

「バー」とは「光る」という意味です。

5.カガーヤ・ナマハ
खगाय नमः [khagāya namaḥ]

空(カ)を行く者(ガ)「カガ」に、ナマハ


6.プーシュネー・ナマハ
पूष्णे नमः [pūṣṇe namaḥ]

滋養する者「プーシャン」に、ナマハ

「プシュ」とは、栄養を与える、という意味です。


7.ヒランニャガルバーヤ・ナマハ
हिरण्यगर्भाय नमः [hiraṇyagarbhāya namaḥ]

トータルのスークシュマ・シャリーラで自己認識している者「ヒランニャガルバ」に、ナマハ

思考、感情、知覚、生理機能などを併せてスークシュマ・シャリーラと呼びます。
スークシュマ・シャリーラは物質でないけれども、「私は~だ」という自己認識の対象になっています。
身体ひとつ分のスークシュマ・シャリーラで自己認識している主体を「個人」と呼びます。
トータルのスークシュマ・シャリーラで自己認識した場合、その主体を「ヒランニャガルバ」と呼びます。スーリャは、ヒランニャガルバの象徴として知られています。



8.マリーチャイェー・ナマハ
मरीचये नमः [marīcaye namaḥ]

全てのパーパが消滅するところ「マリーチ」、つまり「光」へ、ナマハ
もしくは光線「マリーチ」を放つ者へ、ナマハ



9.アーディティヤーヤ・ナマハ
आदित्याय नमः [ādityāya namaḥ]

アディティ(全ての産みの母)の息子「アーディティヤ」へ、ナマハ


10.サヴィトレー・ナマハ
सवित्रे नमः [savitre namaḥ]

全てを創造する者「サヴィトゥル」へ、ナマハ


11.アルカーヤ・ナマハ
अर्काय नमः [arkāya namaḥ]

崇敬に値する者「アルカ」へ、ナマハ


12.バースカラーヤ・ナマハ
भास्कराय नमः [bhāskarāya namaḥ]

輝き(バース)を創る者(カラ)「バースカラ」へ、ナマハ


ご参考までに、音声を入れておきました。
サンスクリットの発音は、発声学を知っている先生の下で習ってください。





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太陽礼拝(サン・サルテーション)のマントラも収録しています。
ヨーガの意味、幸せの意味、人生の意味、
「なぜ祈るの?」「誰に祈るの?」といった
祈りについての全ての疑問に答える、
ヨーガをする人の、必携の一冊。

祈りの理論&サンスクリット語の祈りのことば

そういう思いでこの本を著しました。

 





サンスクリットの表記文字を勉強するのにも、
良い学習教材が無い!
と常日頃思っていたので、自分で作りました。



スマホやタブレット、PCから
正しい発音の音声と、書き順の動画が確認出来る
電子書籍版も人気です。



サンスクリットの文字の練習帳です。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/1515340147/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=1515340147&linkCode=as2&tag=blogsyahooc0b-22








>> 次回 54.サットサンガ(सत्सङ्गः [satsaṅgaḥ])>>

よく「サットサン」と言われている、「善き人との集い」という意味のサンスクリット語の単語です。

バジャ・ゴーヴィンダの歌詞を、サンスクリット語文法も少し入れて説明しました。


<< 前回 53.プラマーナ(प्रमाणम् [pramāṇam])<<

正しい知的活動の為に必ず知っておきたい常識です。




関連: サンスクリットを習い始めた人に、どうか知って欲しいあれこれ


3.アートマン(आत्मा [ātmā])

シンプルに「自分自身」という意味の言葉です。




付録:

文法が好きな人の為に:

1.
मिद्यति स्निह्यति इति मित्रः ।
मिद्  [mid] to feel affectionate + त्र [tra]

2.
रूयते स्तूयते इति रविः ।
रु  [ru] to sound + इ [i]

3.
सरति आकाशे इति सूर्यः
सृ [sṛ] to go + क्यप् [kyap] by 3.2.114
सुवति कर्मणि लोकं प्रेरयति इति सूर्यः ।
सू [sū] to impell

4.
भाति चतुर्दशभुवनेषु स्वप्रभया दीप्यतेइति भानुः ।
भा [bhā] to shine + नु [nu] by U 1.32

5.
खे आकाशे गच्छति इति खगः ।
ख [kha] sky + ङि + गम् [gam] to go + ड [ḍa] by वार्तिक of 3.2.48

6.
पुष् [puṣ] to nourish + कनिन् [kanin] by U 1.1.56

7.
हिरण्यं गर्भे  अस्य इति हिरण्यगर्भः । बहुव्रीहिसमासः

8.
म्रियते पापराशिम् अस्मिन् इति मरीचिः ।
मृ [mṛ] to die + ईच् [īc] by U 4.70

9.
अदितेः अपत्यं पुमान् इति आदित्यः ।
अदिति [aditi] + ङस् + ण्य [ṇya] by 4.1.85

10.
सू [sū] to produce + तृच् [tṛc] agent

11.
अर्च् [arc] to worship + घञ् [ghañ] object

12.
भास् [bhās] + अम् + कृ [kṛ] + ट [ṭa] 3.2.21
One who makes the luster


2015年4月8日水曜日

53.プラマーナ(प्रमाणम् [pramāṇam])- 知る手段、情報源

प्रमाणम् 
[pramāṇam]


neuter - 知る手段、情報源




プラマーナの語源


「マー(मा [mā])」とは、「知る」と言う意味の動詞の原型です。

「プラ(प्र [pra])」は動詞の前につく接頭語で、それ自体には意味は無いのですが、

「マー(मा [mā])」の意味を他の意味として取られないようにしています。

サンスクリット語で「お母さん」「~してはいけない」という時でも、

「マー(मा [mā])」が使われるからです。

動詞の原型の後についている接尾語は「アナ(अन [ana])」です。

「アナ(अन [ana])」には様々な意味がありますが、ここでは「~する手段」です。

全部併せると、「プラ+マー(知る)」+「アナ(~する手段)」、

つまり、「プラマーナ(知る手段、それによって知れるもの)」という言葉が出来上がります。

サンスクリットの文法って難しくないでしょ?でしょ?



プラマーナとは


対象物は何であれ、人間が何かを知る時には、

「その対象物を知る手段」つまり「プラマーナ」が必要です。

プラマーナを通してのみ、人は何かを知ることが出来るのです。

色や形を知るためには、「視覚」というプラマーナを使う。

音を知るためには、「聴覚」というプラマーナを使う。

明日晴れるかどうかを知るためには、目で見たデータを元にして、

それを論理的に処理して結果に導く「推測」というプラマーナを使う。

このように、プラマーナは何種類かに分類できます。


(カタカナばっかりになってしまうので、要点だけを押さえて簡素化しました。)

自分の身体の中に与えられたプラマーナ

1.五感

         i.    プラッティヤクシャ(五感)
        ii. サークシー・プラッティヤクシャ(空腹感など)

2.推論(五感から得たデータが元)

         i.    アヌマーナ
        ii. アルターパッティ
       iii. ウパマーナ
       vi. アヌーパラブディ
 と、4つありますが、全ては五感から得たデータに基づいて
 それを分析したものだと分かればそれでOKです。
 
自分の身体の外にあるプラマーナ

3.言葉

 a. パウルシェーヤ(人間の思考からの言葉)

         i.    出所が五感 「今朝あの人に会ったよ~」
        ii. 出所が推論 「顔色悪かったらきっと風邪引いたんだろうね」
       iii. 出所がアパウルシェーヤ … バガヴァッド・ギーターなど(スムルティ)

 b. アパウルシェーヤ(人間の思考からではない言葉)

         i.    独立したプラマーナ … ヴェーダ(シュルティ)



プラマーナである条件


・ 他のプラマーナと相反してはならない (अबाधितम्)

例えば、目の前のコップが2つに見える。しかし、触ったら1個だった。

視覚と触覚の2つのプラマーナが相反しています。

この場合は、視覚と言うプラマーナに欠陥があるので、メガネなどで補正する必要があります。


・ 他のプラマーナとかぶらない   (अनधिगतम्)

それぞれのプラマーナは、それぞれのエリアをカヴァーしていて、

他のプラマーナのエリアと重なったりしません。

例えば「視覚を使って聞いたりすることは出来ない」ということです。

当たり前すぎるようですが、ヴェーダで教えられている知識を正しく知ろうとする時に、

必ず前提として知っておくべきことです。

また、他の既存のプラマーナとかぶっているなら、

もうひとつのプラマーナとして数えられることは出来ません。


・ プラマーナを使う人に利益をもたらさなくてはならない。(फलवत्त्वम्)

これは言葉(シャブダ)がプラマーナである時に必要な条件です。

わざわざ言葉を使って、聞き手に何かを伝えているのですから、

聞き手の役に立つ新しい情報を提供するものでなければなりません。


プラマーナとして認められないもの


上で見た条件から、プラマーナとして認められないものをあげて見ると、、

・ 個人的な意見
・ 詩、作り話
・ 出鱈目、デマ
・ 直感、夢、お告げ、etc.

・ 言葉がプラマーナである場合:
  ・ 五感や推論に反するもの (अबाधितम्)
  ・ 聞き手の役に立たないもの (फलवत्त्वम्)
 
  ・ 言葉がプラマーナで、さらにアパウルシェーヤの場合:
    ・ 五感や推論で到達できる情報 (अनधिगतम्)



プラマーナに関する混乱が、情報リテラシーのレベルを下げる


無責任で利己的なな情報が溢れる中、自分自身の情報リテラシーのレベルが

落ちぶれないように常に気をつけないと、

プラマーナと呼ぶに値しないものを、プラマーナとしてとらえて論じ始め、

プラマーナと呼ばれるべきものを、「個人の意見」として片付けてしまう、

そんな混乱を自分自身の頭の中に招いてしまうのです。



何を知るために、どのプラマーナを使うか?


色や形を知るためには、視覚と言うプラマーナを使う。

こんなことは当たり前です。

では、自分自身を知るためには、どのプラマーナが適しているのか?

古今東西、自分と世界の真理を知る為の試みが、

哲学や宗教という名の下に続けられてきました。

哲学や宗教は、以下の情報の下に成り立っています。

A. 五感を基にした推論
B. 個人的なアイディア
C. 神様からのお告げ

哲学や宗教は、自分自身を知る為に適したプラマーナなのでしょうか?

A. 五感を基にした推論 では無理

五感や推論は、自分以外の対象物を対象化する為のプラマーナです。

世界のみならず、自分の身体や思考、感情も対象化し続けている、

意識的な主体=私を知る為に、五感や推論は使えません。


B. 個人的なアイディア
C. 神様からのお告げ でも無理

出所は五感では無いですが、

五感や推論に反するものであったり、(永遠の天国、無形で男性の神様など)

聞き手の幸せに貢献するものでなかったりするからです。(あなたは罪人です、など)




ヴェーダーンタ・プラマーナ


ヴェーダの最後の部分を、ヴェーダーンタ、或いはウパニシャッドと呼びます。

ヴェーダーンタは、自分と世界の本質を知る為の手段、

つまりプラマーナとして扱われています。


ヴェーダーンタを理解する為の伝統な論理手法として、

ウッタラ・ミーマームサーと呼ばれる学問があります。

そこでは、ヴェーダーンタのプラマーナとしての有効性が論理的に明らかされ、

さらに、プラマーナであるヴェーダーンタの教えの有効性が論理的に明らかにされます。


プラマーナ不在の精神世界マーケット


情報リテラシーに関して注意深くあるべきと常に気をつけていなければ、

ただでさえ正しい知識活動をするのは難しいのに、

一度「精神世界」「スピリチュアル」「宗教」の話になると、

人間の知能とは、局部麻酔にでもかけられた様に、機能を停止してしまうようです。


世界中に溢れている、「スピリチュアル」「エンライトメント」「サマーディ」

「覚醒」「解脱」「涅槃」「セルフ・ナレッジ」といったアイディアは、

どれも手探りの情報で、プラマーナと呼べるものではありません。

南インドのもっと南では、「自分自身について知りたければ、自分自身に聞けばよい」

と教えて瞑想を推奨し、プラマーナが何かなどとは考える余地も与えません。

どれも全ては、体験を追いかけるものばかりで、

体験者の本質を理解することと、人間の幸せとの関係を教えるものはありません。

インスパイアはしてくれても、辻褄の合う「教え」が無いのです。

体験を追いかけ、理屈に合わないけど、なんとなく気分のいい話を聞いていると、

それなりに満足感や心の平安を、一時的に与えることは出来るかもしれませんが、

一時的な体験であることから、ショッピングや旅行や晩酌と同じで、

根本的な解決には成り得ないのです。

プラマーナに関する質疑応答「質問:ヴェーダーンタは哲学ではないとは?



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<< 前回 52.マントラ(मन्त्रः [mantraḥ])<<

最近日本のヨガスクールでもどんどん教えられるようになってきましたが、充分な注意が必要です。





太陽礼拝(スーリャ・ナマスカーラ)の意味と、そのマントラについて

全身を使って太陽に礼拝することに、どのような意味が込められているのか、マントラとともに説明します。

2015年4月4日土曜日

52.マントラ(मन्त्रः [mantraḥ])- マントラ、ヴェーダの言葉

मन्त्रः 
[mantraḥ]


masculine - マントラ、ヴェーダの言葉




マントラとは通常、ヴェーダの言葉を指します。

ヴェーダは言葉の集まりからなる文章によって伝えられる知識の集合体です。

最近は日本のヨガクラスでも、マントラを教えるところが増えてきましたが、

マントラの神聖さを知り、不用意に取り扱わないよう、充分気をつける必要があります。



さわらぬ神に祟り無し


マントラは、サンスクリットの正確な発音に加え、

微妙で緻密な音の抑揚を守って唱えられなければなりません。

マントラを唱えることによって発せられた、この特定の周波数が、

物理的に結果を生むことから、間違えて発音すると不本意な結果を招くと教えられています。

ゆえに、マントラを勉強するには発声法とサンスクリット文法を熟知している必要があると

伝統で教えられいます。

日本やインドなど世界中の(有名な)ヨガスクールでは、

サンスクリットの伝統を知らないティーチャー達によって、

ヴェーダの神聖なマントラが、間違った発音のみならず、

抑揚も長さも全くトンチンカンでとんでもない節回し(?)で唱えられています。

ガーヤットリー・マントラの項で説明したように、

チャンティングするには、生まれ育ちはもちろん、

24時間の生活基準を守っている必要があります。

この人達みたいに。

宗教的な生活基準がなく、複雑な発音の苦手な日本人が、

祈りの歌のような感覚で手を出すと、不本意な結果を生みかねません。

祈りはマントラでなくても、誰でもチャンティング出来るシュローカが沢山あります。

これから少しずつ、シュローカとその意味について紹介する機会を増やしますね。



マントラとは、先生から授かるもの


マントラは、本やインターネットに書いてあるものを見て、

まねて発音してみて、それで正しい効果を発揮するものではありません。

マントラをカタカナで表記して、それを唱えるように勧めるサイトをいくつか見かけますが、

無理があります。

カタカナに頼らなくても良いくらいにきちんと発音のことを学んでから、

マントラを唱えるかどうかを考えたほうが良いでしょう。

それが何千年にも渡って伝えられてきた伝統に対する尊敬の姿勢です。


マントラというものは、先生から直接「マントラ・ディクシャ」として授かって初めて、

そのマントラを唱えることが出来るのです。

「マントラ・ディクシャ」とは、まず生徒が先生にマントラの教えを乞い、

そして先生が、人生の中で何十万回と繰り返して

ポテンタイズ(有効化)してきたマントラを、生徒に授けるものです。

正しい先生なら、ポテンタイズしていないマントラを生徒にあげることはしません。

そして生徒も、授かったマントラをジャパ(毎日何回も唱えること)して、

ポテンタイズしていくものなのです。

何をもらっても、それを一生かけて続けることが、自然であるように思える、

そんな信頼を、先生に対して持つことの出来る人が「生徒」なのです。


マントラの意味1:文法的派生


「秘かに唱えられるもの、それがマントラ」
मन्त्र्यते गुप्तं परिभाष्यते इति मन्त्रः ।
मन्त्रिँ गुप्तपरिभाषणे 

「こっそり秘かに呟く」という意味の動詞の原型、「マントル(मन्त्र् [mantr])」から派生しています。

なぜ秘密なのかというと、歌のように皆の前で歌ったり、

靴を履いたまま歩きながら、または食べている途中に口ずさんだり、

そんな風に気軽に唱えるものではないからです。

先生からもらったマントラは、何をもらったのかを人に教えることはありません。

それを繰り返し唱える(ジャパ)のも、独りで静かにするものです。

また、マントラを書き記した紙や本を床に置いたり、

食堂に持ち込んだり、足に触れたりすることもありません。


また、マントラの意味は、意味を知りたいと思った人が、

伝統によってその意味を受け継いだ人に教えを仰ぎ、

意味を知る準備が出来ていたら、知ることが出来ると言うようなものなのです。



マントラの意味2:通用的派生


覚える(心の中で繰り返す)ことによって守ってくれる(恩恵を与えてくれる)もの
मननात् त्रायते ।

タイッティリーヤ・ウパニシャッドの2章で教えられているように、

マントラは、マインドの中で繰り返すという行為をするためのものです。

心を使って唱えるという行為が、グレース(プンニャ)を発生し、

その人を人生をより幸せに導いてくれるのです。




マントラの意味3:技術的な意味


マントラを使用する時(儀式の時、ジャパをする時)に、その意味を思い出させるもの
प्रयोगकालसमवेतार्थस्मारकाः मन्त्राः ।

マントラに限らず、インドの学習法とは何でもそうですが、

まず意味は分からなくてもいいから、発音を学び暗記する。

そして意味を教えてもらう。

意味は一回教えてもらえば分かった気になりますが、

マントラを唱えることが日常であるヴェーダの教える生活様式を送っていると、

マントラを唱えるたびにその意味を思い出させてくれ、

またマントラのグレースによって得られた精神的な成長によって、

意味の理解に深みが増すのです。






<< 前の言葉 51.サーダカ(साधकः [sādhakaḥ])<<

使い方を間違えば、人生のゴールと、今ここに居る自分の間に、永遠の距離を作ってしまうかも知れない言葉は沢山あります。気をつけましょう。



>> 次回 53.プラマーナ(प्रमाणम् [pramāṇam])>>

プラマーナとは、何かを知る時に必ず使う、知るため為の手段です。
プラマーナにはどのような種類があるのか?
自分自身を知るときには、どのプラマーナを使うべきか?

専門的な議論をやさしく解説します。

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